六 元暦の大地震
原文
- `また元暦二年の頃大地震ふること侍りき
- `その様世の常ならず
- `山崩れて川を埋み海傾きて陸を浸せり
- `土裂けて水湧き上がり巌割れて谷に転び入り渚漕ぐ船は波に漂ひ道行く駒は足の立処を惑はせり
- `況んや都の辺には在々所々堂舎塔廟一つとして全からず
- `或はくづれ或は倒れたる間塵灰立ち上りて盛んなる煙の如し
- `地の震ひ家のやぶるる音雷に異ならず
- `家の中に居れば忽ちにうちひしげなんとす
- `走り出づればまた地割れ裂く
- `羽なければ空へも上がるべからず
- `龍ならねば雲に昇らんこと難し
- `恐れの中に恐るべかりけるはただ地震なりけりとこそ覚え侍りし
- `その中に或武士のひとり子の六つ七つばかりに侍りしが築地の覆ひの下に小家を作りはかなげなる跡無し事をして遊び侍りしが俄に崩れ埋められて跡形なく平にうちひさがれて二つの目など一寸ばかりうち出されたるを父母抱へて声も惜しまず悲しみ合ひて侍りしこそあはれにかなしく見侍りしか
- `子のかなしみには猛きものも恥を忘れけりと覚えていとほしく理かなとぞ見侍りし
- `かくおびただしくふることはしばしに止みにしがその余波しばしは絶えず
- `世の常に驚くほどの地震二三十度ふらぬ日はなし
- `十日二十日過ぎにしかばやうやう間遠になりて或は四五度二三度もしは一日まぜ二三日に一度など大方その余波三月ばかりや侍りけん
- `四大種の中に水火風は常に害をなせど大地に至りては殊なる変をなさず
- `昔齊衡の頃かとよ
- `大地震ふりて東大寺の仏の御首落ちなどしていみじきことども侍りけれどなほこのたびには如かずとぞ
- `即ち人皆あぢきなき事を述べていささか心の濁りも薄らぐかと見しほどに月日重なり年越えしかば後は言の葉にかけて云ひ出づる人だになし