一
原文
- `問
- `抑申楽を始むるに当日にのぞんで先づ座敷を見て吉凶をかねて知る事はいかなる事ぞや
- `答
- `この事一大事なり
- `その道に得たらん人ならでは心得べからず
- `先づその日の庭を見るに今日は能よく出来べきあしく出来べき瑞相あるべし
- `これ申しがたし
- `然れどもおよその了簡をもて見るに神事貴人の御前などの申楽に人群集して座敷いまだしづまらずさるほどにいかにもいかにもしづめて見物衆申楽を待ちかねて数万人の心一同に
- `遅し
- `と楽屋を見るところに時を得て出で一声をもあぐればやがて座敷も時の調子に移りて万人の心仕手のふるまひ和合してしみじみとなればなにとするもその日の申楽ははやよし
- `さりながら申楽は貴人の御出を本とすれば若しはやく御出あるときはやがて始めずしてはかなはず
- `さるほどに見物の衆の座敷いまだ定まらず或は遅ればせなどにて人の立居しどろにして万人の心いまだ能にならず
- `されば左右なくしみじみとなることなし
- `さやうならんときの脇の能には物になりて出づるとも日来より色々と振をもつくろひ声をも強々とつかひ足ふみをも少し高く踏み立ちふるまふ風情をも人の目にたつやうにいきいきとすべし
- `これ座敷をしづめん為なり
- `さやうならんにつけても殊更その貴人の御心にあひたらん風体をすべし
- `さればかやうなるときの脇の能十分によからんこと返々あるまじきなり
- `然れども貴人の御意にかなへるまでなればこれ肝要なり
- `なにとしても座敷のはやしづまりておのづから浸みたるにはわろきことなし
- `されば座敷の気勢気後をかんがへて見ることその道に長ぜざらん人は左右なく知るまじきなり
- `またいふ
- `夜の申楽ははたと変るなり
- `夜は遅く始まれば定まりて浸めるなり
- `脇の申楽湿りたちぬればそのまま能はなほらず
- `いかにもいかにもよき能を利かすべし
- `夜は人音騒々なれども一声にてやがてしづまるなり
- `然れば昼の申楽は後がよく夜の申楽は指寄よし
- `指寄湿りたちぬればなほる時分左右なくなし
- `秘義にいふ
- `抑一切は陰陽の和する所の境を成就とは知るべし
- `昼の気は陽気なり
- `されば
- `いかにもしづめて能をせん
- `と思ふ巧は陰の気なり
- `陽気の時分に陰の気を生ずること陰陽和する心なり
- `これ能のよく出来る成就の初なり
- `これ
- `おもしろし
- `と見る心なり
- `夜はまた陰なればいかにも浮々とやがてよき能をして人の心花めくは陽なり
- `これ夜の陰に陽気を和する成就なり
- `されば陽の気に陽とし陰の気に陰とせば和する所あるまじければ成就もあるまじ
- `成就なくばなにかおもしろからん
- `また昼のうちにても時によりてなにとやらん座敷を湿りてさびしきやうならばこれ陰の時と心得てしづまらぬやうに心を入れてすべし
- `昼はかやうに時によりて陰気になることありとも夜の気の陽にならんこと左右なくあるまじきなり
- `座敷をかねて見る
- `とはこれなるべし