一
原文
- `一 能の本を書くことこの道の命なり
- `きはめたる才覚の力なけれどもただ巧によりてよき能にはなるものなり
- `大方の風体
- `序破急
- `の段に見えたり
- `殊更脇の申楽本説正しくて開口よりその謂とやがて人の知るごとくならんずる来歴を書くべし
- `さのみにこまかなる風体を尽さずとも大方のかかりすぐに下りたらんがさしより花々とあるやうに脇の申楽をば書くべし
- `また番数にいたりぬればいかにもいかにも言葉風体を尽してこまかに書くべし
- `仮令名所旧跡の題目ならばその所に因りたらんずる詩歌の言葉の耳近からんを能の詰所に寄すべし
- `仕手の言葉にも風情にもかからざらん所には肝要の言葉をば載すべからず
- `なにとしても見物衆は見る所も聞く所も上手をならでは心にかけず
- `さるほどに棟梁のおもしろき言葉 振目にさへぎり心にうかめば見聞く人すなはち感を催すなり
- `これ第一能をつくる手立なり
- `ただやさしくして理のすなはちに聞ゆるやうならんずる詩歌の言葉を取るべし
- `やさしき言葉を振合はすればふしぎにおのづから人体も幽玄の風情になるものなり
- `強りたる言葉は振に応ぜず
- `然あれども強き言葉の耳遠きがまたよき所あるべし
- `それは本木の人体によりて似合ふべし
- `漢家本朝の来歴に従つて心得分くべし
- `ただ賤しく 俗なる言葉 風体わるき能になるものなり
- `然ればよき能と申すは本説正しくめづらしき風体にて詰所ありてかかり幽玄ならんを第一とすべし
- `風体はめづらしからねどもわづらはしくもなくすぐに下りたるがおもしろき所あらんを第二とすべし
- `これはおほよその定めなり
- `ただ能は一風情上手の手にかかりたよりだにあらばおもしろかるべし
- `番数を尽し日をかさぬればたとひわるき能もめづらしく仕替仕替彩ればおもしろく見ゆべし
- `されば能はただ時分 入場なり
- `わるき能とて捨つべからず
- `仕手の心づかひなるべし
- `但しここに様あり
- `善悪にすまじき能あるべし
- `いかなる物まねなればとて仮令老尼姥老僧などの形してさのみ狂ひ怒る事あるべからず
- `また怒れる人体にて幽玄の物まねこれ同じ
- `これをまことの
- `似而非能
- `狂騒
- `とは申すべし
- `この心二の巻の
- `物狂
- `の段に申したり
- `また一切の事に相応なくば成就あるべからず
- `よき本木の能を上手のしたらんがしかも出来たらんを
- `相応
- `とは申すべし
- `されば
- `よき能を上手のせんことなどか出来ざらん
- `と皆人思ひ慣れたれどもふしぎに出来ぬことあるものなり
- `これを目利は見分けて仕手の咎もなきことを知れどもただ大方の人は
- `能もわるく仕手もそれほどにはなし
- `と見るなり
- `抑よき能を上手のせんことなにとて出来ぬやらん
- `と工夫するに若し時分の陰陽の和せぬところかまたは花の公案なき故か不審なほ残れり