三
原文
- `一 能に
- `強き
- `幽玄
- `弱き
- `荒き
- `を知ること
- `大方は見えたる事なればたやすきやうなれども真実これを知らぬによりて弱く荒き仕手多し
- `先づ一切の物まねに偽るところにて荒くも弱くもなると知るべし
- `この境よきほどの工夫にては紛るべし
- `よくよく心底を分けて案じ修むべきことなり
- `先づ弱かるべき事を強くするは偽なればこれ荒きなり
- `強かるべき事に強きはこれ強きなり
- `荒きにはあらず
- `若し強かるべき事を幽玄にせんとて物まね似たらずは幽玄にはなくてこれ弱きなり
- `さるほどにただ物まねにまかせてその物になり入りて偽なくは荒くも弱くもあるまじきなり
- `また強かるべき理過ぎて強きは殊更荒きなり
- `幽玄の風体よりなほやさしくせんとせばこれ殊更弱きなり
- `この分目をよくよく見るに幽玄と強きと別にあるものと心得る故に迷ふなり
- `この二つはその物の体にあり
- `たとへば人においては女御 更衣 または遊女 好色 美男 草木にも花の類
- `かやうの数々はそのかたち幽玄の物なり
- `またあるいは物のふ 荒夷あるいは鬼 神 草木にも松 杉
- `かやうの数々の類は強き物と申すべきか
- `かやうの万物の品々をよく仕似せたらんは幽玄の物まねは幽玄になり強きはおのづから強かるべし
- `この分目をあてがはずしてただ
- `幽玄にせん
- `とばかり心得て物まね粗雑なればそれに似ず
- `似ぬをば知らで
- `幽玄にするぞ
- `と思ふ心これ弱きなり
- `されば遊女美男などの物まねをよく似せたらばおのづから幽玄なるべし
- `ただ
- `似せん
- `とばかり思ふべし
- `また強き事をもよく似せたらんはおのづから強かるべし
- `但し心得べき事あり
- `力なくこの道は見所を本にするわざなればその当世当世の風儀にて幽玄をもてあそぶ見物衆の前にては強き方をばすこし物まねに外るるとも幽玄の方へはやらせ給ふべし
- `この工夫をもて作者また心得べき事あり
- `いかにも申楽の本木には幽玄ならん人体まして心言葉をもやさしからんを嗜みて書くべし
- `それに偽なくはおのづから幽玄の仕手と見ゆべし
- `幽玄の理を知りきはめぬればおのれと強き所をも知るべし
- `されば一切の似事をよく似すればよそ目に危き所なし
- `危からぬは強きなり
- `然ればちちとある言葉のひびきにも
- `なびき
- `臥す
- `かへる
- `よる
- `などいふ言葉は和らかなればおのづから余勢になるやうなり
- `おつる
- `くづるる
- `やぶるる
- `まろぶ
- `など申すは強きひびきなれば振も強かるべし
- `さるほどに強き 幽玄と申すは別にあるものにあらず
- `ただ物まねのすぐなる所弱き荒きは物まねに外るる所と知るべし
- `このあてがひをもて作者も発端の句 一声 和歌などに人体の物まねによりていかにも幽玄なる余勢たよりを求むる所に荒き言葉を書き入れ思ひの外にいりほがなる梵語 漢音などを載せたらんは作者の僻事なり
- `さだめて言葉のままに風情をせば人体に似合はぬ所あるべし
- `但し堪能の人はこの違目を心得て興がる故実にてなだらかなるやうにしなすべし
- `それは仕手の功名なり
- `作者の僻事はのがるべからず
- `また作者は心得て書けども若し仕手の心なからんにいたりては沙汰の外なるべし
- `これはかくのごとし
- `また能によりてさしてこまかに言葉 儀理にかからで大様にすべき能あるべし
- `さやうの能をばすぐに舞 謡 振をもするするとなだらかにすべし
- `かやうなる能をまたこまかにするは下手のわざなり
- `これまた能の下る所と知るべし
- `然ればよき言葉余勢を求むるも儀理 詰所のなくてはかなはぬ能にいたりてのことなり
- `すぐなる能にはたとひ幽玄の人体にて剛き言葉を謡ふとも音曲のかかりだにたしやかならばこれよかるべし
- `これすなはち能の本様と心得べき事なり
- `ただ返々かやうの条々をきはめ尽してさて大様にするならでは能の庭訓あるべからず