山男

原文

  1. `遠野郷にては豪農のことを今でも長者と云ふ
  2. `青笹村大字糠前の長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某と云ふ猟師、或日山に入りて一人の女に遭ふ
  3. `怖ろしくなりて之を撃たんとせしに、
  4. `何をぢでは無いか、ぶつな
  5. `と云ふ
  6. `驚きてよく見ればの長者がまな娘なり
  7. `何故にこんな処には居るぞ
  8. `と問へば、
  9. `或物に取られて今は其妻となれり
  10. `子もあまた生みたれど、すべて夫が食ひ尽して一人の如く在り
  11. `おのれは此地に一生涯を送ることなるべし
  12. `人にも言ふな
  13. `御身も危ふければ疾く帰れ
  14. `と云ふままに、其在所をも問ひらめずして遁げ帰れりと云ふ

注釈

`糠の前は糠の森の前に在る村なり、糠の森は諸国の糠塚と同じ遠野郷にも糠森糠塚多くあり