山男

原文

  1. `上郷村の民家の娘、栗を拾ひに山に入りたるまま帰り来らず
  2. `家の者は死したるならんと思ひ、女のしたる枕を形代として葬式を執行ひ、さて二三年を過ぎたり
  3. `然るに其村の者猟をして五葉山の腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽ひかかりて岩窟のやうになれる所にて、図らず此女に逢ひたり
  4. `互に打驚き、
  5. `如何にしてかかる山には居るか
  6. `と問へば、女の曰く、
  7. `山に入りて恐ろしき人にさらはれ、こんな所に来たるなり
  8. `遁げて帰らんと思へど、の隙も無し
  9. `とのことなり
  10. `其人は如何なる人か
  11. `と問ふに、
  12. `自分には並の人間と見ゆれど、ただ丈極めて高く眼の色少し凄しと思はる
  13. `子供も幾人か生みたれど、
  14. `我に似ざれば我子には非ず
  15. `と云ひてふにや殺すにや、皆れへか持ち去りてしまふ也
  16. `と云ふ
  17. `まことに我々と同じ人間か
  18. `と押し返して問へば、
  19. `衣類なども世の常なれど、ただ眼の色少しちがへり
  20. `一市間に一度か二度、同じやうなる人四五人集り来て、何事か話を為し、やがて何方へか出て行くなり
  21. `食物など外より持ち来るを見れば町へも出ることならん
  22. `かく言ふにも今にそこへ帰つて来るかも知れず
  23. `と云ふ故、猟師も怖ろしくなりて帰りたりと云へり
  1. `二十年ばかりも以前のことかと思はる

注釈

`一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間は即ち五日のことなり