原文 `菊池弥之助と云ふ老人は若き頃駄賃を業とせり `笛の名人にて夜通しに馬を追ひて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり `ある薄月夜に、あまたの仲間の者と共に浜へ越ゆる境木峠を行くとて、又笛を取出して吹きすさみつつ、大谷地一と云ふ所の上を過ぎたり `大谷地は深き谷にて白樺の林しげく、其下は葦など生じ湿りたる沢なり `此時谷の底より何者か高き声にて `面白いぞー `と呼はる者あり `一同悉く色を失ひ遁げ走りたりと云へり