原文 `此老人は数十年の間山の中に独にて住みし人なり `よき家柄なれど、若き頃財産を傾け失ひてより、世の中に思を絶ち、峠の上に小屋を掛け、甘酒を往来の人に売りて活計とす `駄賃の徒は此翁を父親のやうに思ひて、親しみたり `少しく収入の余あれば、町に下り来て酒を飲む `赤毛布にて作りたる半纏を著て、赤き頭巾を被り、酔へば町の中を躍りて帰るに巡査もとがめず `愈老衰して後、旧里に帰りあはれなる暮しを為せり `子供はすべて北海道へ行き、翁唯一人也