原文
- `若き頃夜遊びに出で、まだ宵のうちに帰り来り、門の口より入りしに、洞前に立てる人影あり
- `懐手をして筒袖の袖口を垂れ、顔は茫としてよく見えず
- `妻は名をおつねと云へり
- `おつねの所へ来たるヨバヒト一では無いか
- `と思ひ、つかつかと近よりしに、奥の方へは遁げずして、却つて右手の玄関の方へ寄る故、人を馬鹿にするなと腹立たしくなりて、猶進みたるに、懐手のまま後ずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたる所より、すつと内に入りたり
- `されど長蔵は猶不思議とも思はず、其戸の隙に手を差入れて中を探らんとせしに、中の障子は正しく閉してあり
- `茲に始めて恐ろしくなり、少し引下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲壁二にひたと付きて我を見下す如く、其首は低く垂れて我頭に触るるばかりにて、其眼の球は尺余も、抜け出でてあるやうに思はれたりと云ふ
- `此時は只恐ろしかりしのみにて何事の前兆にても非ざりき