原文
- `松崎村に天狗森と云ふ山あり
- `其麓なる桑畑にて村の若者何某と云ふ者、働きて居たりしに、頻に睡くなりたれば、暫く畑の畔に腰掛けて居眠りせんとせしに、極めて大なる男の顔は真赤なるが出で来れり
- `若者は気軽にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すやうなるを面悪く思ひ、思はず立上りて
- `お前はどこから来たか
- `と問ふに、何の答もせざれば、
- `一つ突き飛ばしてやらん
- `と思ひ、力自慢のまま飛びかかり手を掛けたりと思ふや否や、却りて自分の方が飛ばされて気を失ひたり
- `夕方に正気づきて見れば無論その大男は居らず
- `家に帰りて後人に此事を話したり
- `其秋のことなり
- `早池峰の腰へ村人大勢と共に馬を曳きて萩を刈りに行き、さて帰らんとする頃になりて此男のみ姿見えず
- `一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死して居たりと云ふ
- `今より二三十年前のことにて、此時の事をよく知れる老人今も存在せり
- `天狗森には天狗多く居ると云ふことは昔より人の知る所なり