九一 山の神
原文
- `遠野の町に山々の事に明るき人あり
- `もとは南部男爵家の鷹匠なり
- `町の人綽名して鳥御前と云ふ
- `早池峰、六角牛の木や石や、すべて其形状と在所とを知れり
- `年取りて後茸採りにとて一人の連と共に出でたり
- `この連の男と云ふは水練の名人にて、藁と槌とを持ちて水の中に入り、草鞋を作りて出てくると云ふ評判の人なり
- `さて遠野の町と猿ケ石川を隔つる向山と云ふ山より、綾織村の続石とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人は又少し山を登りしに、恰も秋の空の日影、西の山の端より四五間ばかりなる時刻なり
- `ふと大なる岩の陰に赭き顔の男と女とが立ちて何か話をして居るに出逢ひたり
- `彼等は鳥御前の近づくを見て、手を拡げて押戻すやうなる手つきを為し制止したれども、それにも構はず行きたるに女は男の胸に縋るやうにしたり
- `事のさまより真の人間にてはあるまじと思ひながら、鳥御前はひやうきんな人なれば
- `戯れて遣らん
- `とて腰なる切刃を抜き、打ちかかるやうにしたれば、その色赭き男は足を挙げて蹴たるかと思ひしが、忽ちに前後を知らず
- `連なる男は之を探しまはりて谷底に気絶してあるを見付け、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、
- `かかる事は今までに更になきことなり
- `おのれは此為に死ぬかも知れず、外の者には誰にも言ふな
- `と語り、三日程の間病みて身まかりたり
- `家の者あまりに其死にやうの不思議なればとて、山臥のケンコウ院と云ふに相談せしに、其答には、
- `山の神たちの遊べる所を邪魔したる故、その祟をうけて死したるなり
- `と言へり
- `此人は伊能先生なども知合なりき
- `今より十余年前の事なり