原文
- `これは和野の人菊池菊蔵と云ふ者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり
- `この妻親里へ行きたる間に、糸蔵と云ふ五六歳の男の児病気になりたれば、昼過ぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり
- `名に負ふ六角牛の峰続きなれば山路は樹深く、殊に遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウド一になりて両方は岨なり
- `日影は此岨に隠れてあたり稍薄暗くなりたる頃、後の方より
- `菊蔵
- `と呼ぶ者あるに振返りて見れば、崖の上より下を覗くものあり
- `顔は赭く眼の光りかがやけること前の話の如し
- `お前の子はもう死んで居るぞ
- `と云ふ
- `この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはつと思ひたりしが、早其姿は見えず
- `急ぎ夜の中に妻を伴ひて帰りたれば、果して子は死してありき
- `四五年前のことなり