九九 魂の行方
原文
- `土淵村の助役北川清と云ふ人の家は字火石に在り
- `代々の山臥にて祖父は正福院と云ひ、学者にて著作多く、村の為に尽したる人なり
- `清の弟に福二と云ふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき
- `夏の初の月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所に在りて行く道も浪の打つ渚なり
- `霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりし我妻なり
- `思はず其跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振返りてにこと笑ひたり
- `男はと見れば此も同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり
- `自分が婿に入りし以前に互に深く心を通はせたりと聞きし男なり
- `今は此人と夫婦になりてあり
- `と云ふに、
- `子供は可愛くはないのか
- `と云へば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり
- `死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見て在りし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり
- `追ひかけて見たりしがふと
- `死したる者なりし
- `と心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり
- `其後久しく煩ひたりと云へり