原文
- `青々たる春の柳
- `家園に種うることなかれ
- `交は軽薄の人と結ぶことなかれ
- `楊柳茂りやすくとも
- `秋の初風の吹くに耐へめや
- `軽薄の人は交りやすくして亦速なり
- `楊柳いくたび春に染むれども
- `軽薄の人は絶えて訪ふ日なし
- `播磨の国加古の駅に丈部左門といふ博士あり
- `清貧をあまなひて
- `友とする書の外は
- `すべて調度の絮煩しきを厭ふ
- `老母あり孟氏の操にゆづらず
- `常に紡績を事として左門がこころざしを助く
- `其妹女なるものは同じ里の佐用氏に養はる
- `此佐用が家は頗る富み栄えて有りけるが
- `丈部母子の賢きを慕ひ
- `娘子を娶りて親族となり
- `屡事に託せて物を餉るといへども
- `口腹の為に人を累はさんやとて敢て承くることなし
- `一日左門同じ里の何某が許に訪ひて
- `いにしへ今の物語りして興ある時に
- `壁を隔てて人の痛しむ声いともあはれに聞えければ
- `主に尋ぬるに
- `あるじ答ふ
- `是より西の国の人と見ゆるが
- `伴なひに後れしよしにて一宿を求めらるるに
- `士家の風ありて卑しからぬと見しままに
- `留めまゐらせしに
- `其夜邪熱劇しく
- `起臥も自らはまかせられぬを
- `いとほしさに三日四日は過ごしぬれど
- `何地の人ともさだかならぬに
- `主も思ひ掛けぬ過し出でて
- `ここち惑ひ侍りぬといふ
- `左門聞きて
- `かなしき物語にこそ
- `主の心安からぬもさる事にしあれど
- `病苦の人はしるべなき旅の空に
- `此疾を憂ひ給ふは
- `わきて胸窮しくおはすべし
- `其やうをも看ばやといふを
- `主とどめて
- `瘟病は人を過つ物と聞ゆるから
- `家童らも敢てかしこに行かしめず
- `立ちよりて身を害し給ふことなかれ
- `左門笑ひていふ
- `死生命あり
- `何の病か人に伝ふべき
- `是らは愚俗の言にて吾們はとらずとて
- `戸を推して入りつも其人を見るに
- `主がかたりしに違はで
- `なみの人にはあらじを
- `病深きと見えて面は黄に
- `肌黒く痩せ
- `古き衾のうへに悶へ臥す
- `人なつかしげに左門を見て
- `湯ひとつ恵み給へといふ
- `左門ちかくよりて
- `士憂へ給ふことなかれ
- `必ず救ひまゐらすべしとて
- `あるじと計りて薬をえらみ
- `自ら方を案じ
- `みづから煮てあたへつも
- `猶粥をすすめて
- `病を看ること兄弟のごとく
- `まことに捨てがたきありさまなり
- `かの武士左門が愛憐の厚きに涙を流して
- `かくまで漂客を恵み給ふ
- `死すとも御心に報いたてまつらんといふ
- `左門諫めて
- `ちからなき事をな聞え給ひそ
- `凡そ疫は日数あり
- `其程を退ぎぬれば寿命をあやまたず
- `吾日々に詣でつかへまゐらすべしと
- `実やかに約りつつも
- `心をもちゐて助けけるに
- `病やや減じてここち清しくおぼえければ
- `主にも念比に詞をつくし
- `左門が陰徳をたふとみて
- `其生業をもたづね
- `己が身の上をもかたりていふ
- `故出雲の国松江の郷に生長りて
- `赤穴宗右衛門といふ者なるが
- `わづかに兵書の旨を寮めしによりて
- `富田の城主塩冶掃部介
- `吾を師として物学び給ひしに
- `近江の佐々木氏綱に密の使にえらばれて
- `かの館にとどまるうち
- `前の城主尼子経久
- `山中党をかたらひて
- `大三十日の夜不慮に城を乗りとりしかば
- `掃部殿も討死ありしなり
- `もとより雲州は佐々木の持国にて
- `塩冶は守護代なれば
- `三沢三刀屋を助けて
- `経久を亡ぼし給へとすすむれども
- `氏綱は外勇にして内怯えたる愚将なれば果さず
- `かへりて吾を国に逗む
- `故なき所に永く居らじと
- `己が身ひとつを窃みて国に還る路に
- `此疾にかかりて
- `思ひがけずも師を煩はしむるは
- `身に余りたる御恵にこそ
- `吾半世の命をもて必報いたてまつらん
- `左門いふ
- `見る所を忍びざるは人たるものの心なるべければ
- `厚き詞ををさむるに故なし
- `猶留まりていたはり給へと
- `実ある詞を便りにて日比経るままに
- `物みな平生に迩くぞなりにける
- `此日比左門はよき友もとめたりとて
- `日夜交りて物がたりするに
- `赤穴も諸子百家の事おろおろかたり出で
- `問ひわきまふる心愚ならず
- `兵機のことわりはをさをさしく聞えければ
- `ひとつとして相ともにたがふ心もなく
- `且めで且よろこびて
- `終に兄弟の盟をなす
- `赤穴五歳長じたれば
- `伯氏たるべき礼義ををさめて
- `左門にむかひていふ
- `吾父母に離れまゐらせていとも久し
- `賢弟が老母はやがてわが母なれば
- `あらたに拝みたてまつらんことを願ふ
- `老母あはれみてをさなき心を肯け給はんや
- `左門歓びに堪へず
- `母なる者常に我孤独を憂ふ
- `信ある言を告げなば齢も延びなんにと
- `伴ひて家に帰る
- `老母よろこび迎へて
- `吾子不才にて学ぶ所時にあはず
- `青雲の便を失ふ
- `ねがふは捨てずして伯氏たる教を施し給へ
- `赤穴拝していふ
- `丈大夫は義を重しとす
- `功名富貴はいふに足らず
- `吾いま母公の慈愛をかうむり
- `賢弟の敬を納むる
- `何の望かこれに過ぐべきと喜びうれしみつつ
- `又日来をとどまりける
- `きのふけふ咲きぬると見し尾上の花も散りはてて
- `涼しき風による浪に
- `とはでもしろき夏の初になりぬ
- `赤穴母子にむかひて
- `吾近江を遁れ来りしも
- `雲州の動静を見んためなれば
- `一たび下向りて
- `やがて帰りきたり
- `菽水の奴に御恩をかへし奉るべし
- `今のわかれを給へといふ
- `左門いふ
- `さあらば兄長いつの時にか帰り給ふべき
- `赤穴いふ
- `月日は逝きやすし
- `おそくとも此秋は過さじ
- `左門いふ
- `秋はいつの日を定めて待つべきや
- `ねがふは約し給へ
- `赤穴いふ
- `重陽の佳節をもて帰り来る日とすべし
- `左門いふ
- `兄長必ず此日をあやまり給ふな
- `一枝の菊花に薄き酒を備へて待ちたてまつらんと
- `互に信をつくして赤穴は西に帰りけり
- `あら玉の月日はやく経ゆきて
- `下技の茱萸色づき
- `垣根の野ら菊艶ひやかに
- `九月にもなりぬ
- `九日はいつよりも蚤く起き出でて
- `草の屋の席をはらひ
- `黄菊白菊二枝三枝小瓶に挿し
- `嚢をかたぶけて酒飯の設をす
- `老母いふ
- `かの八雲たつ国は山陰の果にありて
- `ここには百里を隔つると聞けば
- `けふとも定めがたきに
- `其来しを見ても物すとも遅からじ
- `左門いふ
- `赤穴は信ある武士なれば必ず約を誤らじ
- `其人を見てあわただしからんは思はんことのはづかしとて
- `美酒を沽ひ鮮魚を宰て厨に備ふ
- `此日や天晴て千里に雲のたちゐもなく
- `草枕旅ゆく人の群々かたりゆくは
- `けふは誰某がよき京入なる
- `此度の商物によき徳とるべき祥になんとて過ぐ
- `五十あまりの武士二十あまりの同じ出立なる
- `日和はかばかりよかりしものを
- `明石より船もとめなば
- `この朝びらきに牛窓の門の泊は追ふべき
- `若き男はけく物怯して
- `銭おほく費すことよといふに
- `殿の上らせ給ふ時
- `小豆島より室津のわたりし給ふに
- `なまからきめにあはせ給ふを
- `御伴に侍りし者のかたりしを思へば
- `このほとりの渡は必ず怯ゆべし
- `な恚み給ひそ
- `魚が橋の蕎麦ふるまひ申さんにと
- `いひなぐさめて行く
- `口とる男の腹だたしげに
- `此死馬は眼をもはたけぬかと
- `荷鞍おしなほして追ひもて行く
- `午時もややかたぶきぬれど
- `待ちつる人は来らず
- `西に沈む日に
- `宿り急ぐ足のせはしげなるを見るにも
- `外の方のみまもられて心酔へるが如し
- `老母左門をよびて
- `人の心の秋にはあらずとも
- `菊の色こきはけふのみかは
- `帰りくる信だにあらば
- `空は時雨にうつりゆくとも何をか怨むべき
- `入て臥しもして
- `又翌の日を待つべしとあるに否みがたく
- `母をすかして前に臥さしめ
- `もしやと戸の外に出て見れば
- `銀河影きえぎえに
- `氷輪我のみを照して淋しきに
- `軒守る犬の吠ゆる声すみわたり
- `浦浪の音ぞここもとにたちくるやうなり
- `月の光も山の際に陰くなれば
- `今はとて戸を閉てて入らんとするに
- `ただ看る
- `おぼろなる黒影の中に人ありて
- `風のまにまに来るをあやしと見れば
- `赤穴宗右衛門なり
- `踊りあがる心地して
- `小弟蚤くより待ちて今にいたりぬる
- `盟たがはで来り給ふことのうれしさよ
- `いざ入せ給へといふめれど
- `只点頭きて物をもいはである
- `左門前にすすみて
- `南の窓の下にむかへ座につかしめ
- `兄長来りたまふことの遅かりしに
- `老母も待ちわびて
- `翌こそと臥所に入らせ給ふ
- `寤させまゐらせんといへるを
- `赤穴又頭を揺りてとどめつも
- `更に物をもいはでぞある
- `左門いふ
- `既に夜をつぎて来し給ふに
- `心も倦み足も労れ給ふべし
- `幸に一杯を酌みて歇息ませ給へとて
- `酒をあたため
- `下物を列ねてすすむるに
- `赤穴袖をもて面を掩ひ
- `其臭を嫌放くるに似たり
- `左門いふ
- `井臼の力はた欵すに足らざれども
- `己が心なり
- `いやしみ給ふことなかれ
- `赤穴猶答へもせで
- `長嘘をつきつつ
- `しばししていふ
- `賢弟が信ある饗応をなどいなむべきことわりやあらん
- `欺くに詞なければ
- `実をもて告ぐるなり
- `必しもな怪み給ひそ
- `吾は陽世の人にあらず
- `きたなき霊のかりに形を見せつるなり
- `左門大に驚きて
- `兄長何ゆゑにこのあやしきを語り出で給ふや
- `更に夢ともおぼえ侍らず
- `赤穴いふ
- `賢弟とわかれて国にくだりしが
- `国人大かた経久が勢に服きて
- `塩冶の恩を顧るものなし
- `従弟なる赤穴丹治
- `富田の城にあるを訪ひしに
- `利害を説きて吾を経久に見えしむ
- `仮に其詞を容れて
- `つらつら経久がなす所を見るに
- `万夫の雄人に勝れ
- `よく士卒を習練すといへども
- `智を用ゐるに狐疑の心おほくして
- `腹心爪牙の家の子なし
- `永く居りて益なきを思ひて
- `賢弟が菊花の約ある事をかたりて去らんとすれば
- `経久怨める色ありて
- `丹治に令し
- `吾を大城の外にはなたずして
- `遂にけふにいたらしむ
- `此約にたがふものならば
- `賢弟吾を何ものとかせんと
- `ひたすら思ひ沈めども遁るるに方なし
- `いにしへの人のいふ
- `人一日に千里をゆくことあたはず
- `魂よく一日に千里をもゆくと
- `此ことわりを思ひ出で
- `みづから刃に伏し
- `今夜陰風に乗りて遥々来り菊花の約に赴く
- `この心をあはれみ給へといひをはりて涙わき出づるが如し
- `今は永きわかれなり
- `只母公によくつかへ給へとて
- `座を立つと見しがかき消えて見えずなりにける
- `左門慌忙てとどめんとすれば
- `陰風に眼くらみて行方をしらず
- `俯向につまづき倒れたるままに
- `声を放ちて大に哭く
- `老母目さめ驚き立つて
- `左門がある所を見れば
- `座上に酒瓶魚盛りたる皿どもあまた列べたるが中に臥し倒れたるを
- `いそがはしく扶け起して
- `いかにと問へども
- `只声を呑みて泣くなくさらに言なし
- `老母問ふていふ
- `伯氏赤穴が約にたがふを怨むるとならば
- `明日なんもし来るには言なからんものを
- `汝かくまでをさなくも愚なるかとつよく諫むるに
- `左門やや答へていふ
- `兄長今夜菊花の約にわざわざ来る
- `酒肴をもて迎ふるに
- `再三辞み給ふていふ
- `しかじかのやうにて約に背くがゆゑに
- `自ら刃に伏して陰魂百里を来るといひて見えずなりぬ
- `それ故にこそは母の眠をも驚かし奉つれ
- `只々赦し給へと潜然と哭き入るを
- `老母いふ
- `牢裏に繋がるる人は夢にも赦さるるを見え
- `渇するものは夢に漿水を飲むといへり
- `汝も又さる類にやあらん
- `よく心を静むべしとあれども
- `左門頭を揺りて
- `まことに夢の正なきにあらず
- `兄長はここもとにこそありつれと
- `又声を放げて哭き倒る
- `老母も今は疑はず
- `相呼びて其夜は哭きあかしぬ
- `明る日左門母を拝していふ
- `吾幼なきより身を翰墨に托するといへども
- `国に忠義の聞なく
- `家に孝信をつくすことあたはず
- `徒に天地のあひだに生るるのみ
- `兄長赤穴は一生を信義の為に終る
- `小弟けふより出雲に下り
- `せめては骨を蔵めて信を全うせん
- `公尊体を保ち給ふて
- `しばらくの暇を給ふべし
- `老母いふ
- `吾児かしこに去くともはやく帰りて老が心を休めよ
- `永く逗りてけふを旧しき日となすことなかれ
- `左門いふ
- `生は浮きたる泡の如く
- `旦にゆふべに定めがたくとも
- `やがて帰りまゐるべしとて涙を振ふて家を出で
- `佐用氏にゆきて老母の介抱を苦にあつらへ
- `出雲の国にまかる路に
- `飢ゑて食を思はず
- `寒きに衣をわすれてまどろめば
- `夢にも哭きあかしつつ
- `十日を経て富田の大城にいたりぬ
- `先赤穴丹沿が宅にゆきて姓名をもていひ入るに
- `丹治迎へ請じて
- `翼ある物の告ぐるにあらで
- `いかでしらせ給ふべき謂なしと頻りに問ひ尋む
- `左門いふ
- `士たる者は富貴消息の事ともに論ずべからず
- `只信義をもて重しとす
- `伯氏宗右衛門一旦の約をおもんじ
- `むなしき魂の百里を来るに報いんとて
- `日夜を逐ふてここに下りしなり
- `吾学ぶ所について士に尋ねまゐらすべき旨あり
- `ねがふは明らかに答へ給へかし
- `昔魏の公叔座病の牀にふしたるに
- `魏王みづからまうでて手をとりつも告ぐるは
- `若諱むべからずのことあらば
- `誰をして社稷を守らしめんや
- `吾ために教を遺せとあるに
- `叔座いふ
- `商鞅年少しといへども奇才あり
- `王若此人を用ゐ給はずば
- `これを殺しても境をいだすことなかれ
- `他の国にゆかしめば必も後の禍となるべしと
- `苦に教へて
- `又商鞅を私にまねき
- `吾汝をすすむれども王許さざる色あれば
- `用ゐずばかへりて汝を害し給へと教ふ
- `是君を先にし臣を後にするなり
- `汝速く他の国に去りて害を免るべしといへり
- `此事士と宗右衛門に比へてはいかに
- `丹治
- `只頭を低れて言なし