吉備津の釜

原文

  1. `妬婦の養ひ難きも
  2. `老いての後其功を知ると
  3. `これ何人のぞや
  4. `の甚しからぬも
  5. `わたらひを妨げ物を破りて
  6. `垣の隣のそしりをふせぎがたく
  7. `害の大なるに及びては
  8. `家を失ひ国をほろぼして
  9. `天が下に笑を伝ふ
  10. `いにしへより此毒にあたる人幾許といふ事をしらず
  11. `死してとなり
  12. `或は霹靂て怨を報ゆる類は
  13. `其肉をにするとも飽くべからず
  14. `さる例は希なり
  15. `夫のおのれをよくめて教へなば
  16. `おのづから避くべきものを
  17. `只かりそめなる徒ごとに
  18. `女の慳しき性を募らしめて
  19. `其身の憂をもとむるにぞありける
  20. `禽を制するは気にあり
  21. `婦を制するは其夫の雄々しきにありといふは
  22. `げにさることぞかし
  1. `吉備の国賀夜郡庭妹の郷に井沢庄太夫といふものあり
  2. `祖父は播磨の赤松に仕へしが
  3. `去んぬる嘉吉元年のにかの館を去りてここに来り
  4. `庄太夫にいたるまで三代を経て
  5. `春耕し秋収めて
  6. `家ゆたかにくらしけり
  7. `一子正太郎なるもの
  8. `農業を厭ふあまりに
  9. `酒に乱れ色に耽りて
  10. `父が掟を守らず
  11. `父母これを嘆きてにはかるは
  12. `あはれ良人女子の貌よきを娶りてあはせなば
  13. `が身もおのづからまりなんとて
  14. `あまねく国中をもとむるに
  15. `幸に媒氏ありていふ
  16. `吉備津の神主香央造酒女子
  17. `うまれだち秀麗にて
  18. `父母にもよく仕へ
  19. `かつ歌をよみなり
  20. `従来かの家は吉備の鴨別にて
  21. `家系も正しければ
  22. `君が家に因み給ふははた吉祥なるべし
  23. `此事のらんは老が願ふ所なり
  24. `大人の御心いかにおぼさんやといふ
  25. `庄太夫大に
  26. `よくも説かせ給ふものかな
  27. `此事我家にとりて千とせの計なりといへども
  28. `香央は此国の貴族にて
  29. `我は氏なき田夫なり
  30. `門戸敵すべからねば
  31. `おそらくはひ給はじ
  32. `媒氏の翁笑をつくりて
  33. `大人り給ふ事甚し
  34. `我かならず万歳ふべしと
  35. `往きて香央に説けば
  36. `彼方にもよろこびつつ
  37. `妻なるものにもかたらふに
  38. `妻もいさみていふ
  39. `我女子既に十七歳になりぬれば
  40. `朝夕によき人がなせんものをと
  41. `心もおちゐ侍らず
  42. `はやく日をえらみて聘礼れ給へと
  43. `あながちにすすむれば
  44. `盟約すでになりて井沢にかへりごとす
  45. `やがてしるしを厚くととのへて送り納れ
  46. `よき日をとりて婚儀をもよほしけり
  1. `猶幸を神に祈るとて巫子祝部を召し集めて御湯をたてまつる
  2. `そもそも当社に祈誓する人は
  3. `数の祓物を供へて御湯を奉り
  4. `吉祥凶祥を占ふ
  5. `巫子祝詞をはり
  6. `湯の沸き上るに及びて
  7. `吉祥には釜の鳴る牛の吼ゆるが如し
  8. `しきは釜に音なし
  9. `是を吉備津の御釜祓といふ
  10. `さるに香央が家の事は
  11. `神のうけさせ給はぬにや
  12. `只秋の虫の叢にすだくばかりの声もなし
  1. `ここに疑をおこして
  2. `を妻にかたらふ
  3. `妻更に疑はず
  4. `御釜の音なかりしは
  5. `祝部等が身の清からぬにぞあらめ
  6. `既にしるしを納めしうへ
  7. `かの赤縄に繋ぎては
  8. `仇ある家
  9. `異なるなりともふべからずと聞くものを
  10. `ことに井沢は弓の本末をも知りたる人のにて
  11. `掟ある家と聞けば
  12. `今否むともがはじ
  13. `殊に佳婿なるをほの聞きて
  14. `我児も日をかぞへて待ちわぶる物を
  15. `今のよからぬを聞くものならば
  16. `不慮なる事をや仕出でん
  17. `其とき侮ゆるともかへらじと
  18. `言をつくして諫むるは
  19. `まことに女のばへなるべし
  20. `香央も従来ねがふなれば深く疑はず
  21. `妻のことばにつきて婚儀ととのへ
  22. `両家の親族氏族
  23. `鶴の千とせ
  24. `亀の万代をうたひことぶきけり
  1. `香央の女子磯良かしこに往きてより
  2. `に起きおそく臥して
  3. `常に舅姑の傍を去らず
  4. `夫が性をはかりて心をつくして仕へければ
  5. `井沢夫婦は孝節をめでたしとてにたへねば
  6. `正太郎も其志にめでて
  7. `むつまじくかたらひけり
  8. `されどおのがままのたはけたる性はいかにせん
  9. `いつの比よりの津の袖といふ妓女にふかくなじみて
  10. `遂にひいだし
  11. `ちかき里に別荘をしつらひ
  12. `かしこに日をかさねて家にかへらず
  13. `磯良これを怨みて
  14. `或は舅姑忿せて諫め
  15. `或日なる心をうらみかこてども
  16. `大虚にのみ聞きなして
  17. `後は月をわたりてかへり来らず
  18. `父は磯良が切なる行止を見るに忍びず
  19. `正太郎を責めて押し籠めける
  20. `磯良これを悲しがりて
  21. `朝夕のも殊やかに
  22. `かつ袖が方へもに物をりて
  23. `のかぎりをぞつくしける
  1. `一日父が宿にあらぬ
  2. `正太郎磯良をかたらひていふ
  3. `御許の信ある操を見て
  4. `今はおのれが身の罪を悔ゆるばかりなり
  5. `かの女をも古郷に送りてのち
  6. `父のを和め奉らん
  7. `は播磨の印南野の者なるが
  8. `親もなき身の浅ましくてあるを
  9. `いとかなしく思ひてをもかけつるなり
  10. `我に捨てられなば
  11. `はた船泊の妓女となるべし
  12. `おなじ浅ましき奴なりとも
  13. `京は人の情もありと聞けば
  14. `渠をば京に送りやりて
  15. `ある人に仕へさせたく思ふなり
  16. `我かくてあれば万に貧しかりぬべし
  17. `路の代身にまとふ物もがはかりごとしててあたへん
  18. `御許此事をよくしてかれを恵み給へと
  19. `ねんごろにあつらへけるを
  20. `磯良いとも喜しく
  21. `此事安くおぼし給へとて
  22. `におのが衣服調度を金に貿
  23. `猶香央の母が許へも偽りて金を乞ひ
  24. `正大郎に与へける
  1. `此金を得て密に家をのがれ出で
  2. `袖なるものを倶して京の方へ逃げのぼりける
  3. `かくまでたばかられしかば
  4. `今はひたすらにうらみ嘆きて
  5. `遂に重き病に臥しにけり
  6. `井沢香央の人々彼を悪み此を哀みて
  7. `専ら医の験をもとむれども
  8. `さへ日々にすたりて
  9. `よろづにたのみなくぞ見えにける
  1. `ここに播磨の国印南郡荒井の里に
  2. `彦六といふ男あり
  3. `渠は袖とちかき従弟のあれば
  4. `先これを訪ふ
  5. `しばらく足を休めける
  6. `彦六正太郎にむかひて
  7. `京なりとて人ごとにたのもしくもあらじ
  8. `ここにられよ
  9. `一飯をわけてともに過活の謀あらんと
  10. `たのみあるに心おちゐて
  11. `ここに住むべきに定めける
  12. `彦六我住むとなりなる荒屋をかりて住ましめ
  13. `友得たりとてびけり
  1. `しかるに袖風の心地といひしが
  2. `何となく悩み出でて
  3. `鬼化のやうに狂はしげなれば
  4. `ここに来りて幾日もあらず
  5. `此禍に係る悲しさに
  6. `みづからもさへわすれて抱き扶くれども
  7. `只音をのみ泣きて胸り堪へがたげに
  8. `さむれば常にかはるともなし
  9. `窮魂といふものにや
  10. `古郷に捨し人のもしやと独むね苦し
  11. `彦六これを諫めて
  12. `いかでさる事のあらん
  13. `疫といふものの悩ましきはあまた見来りぬ
  14. `熱き心少しさめたらんには
  15. `夢わすれたるやうなるべしと
  16. `易げにいふぞたのみなる
  1. `看る看る露ばかりのしるしもなく
  2. `七日にして空しくなりぬ
  3. `を仰ぎ
  4. `地を敲きて哭き悲しみ
  5. `ともにもと物狂はしきを
  6. `さまざまといひめて
  7. `かくてはとて遂に昿野の煙となしはてぬ
  8. `骨をひろひを築きて塔婆を営み
  9. `僧を迎へて菩提のことねんごろに弔ひける
  10. `正太郎今は俯して黄泉をしたへども
  11. `招魂の法をもとむる方なく
  12. `仰ぎて古郷をおもへば
  13. `かへりて地下よりも遠きここちせられ
  14. `前に渡りなく後に途をうしなひ
  15. `昼はしみらに打ち臥して夕々ごとにはのもとに詣で見れば
  16. `小草はやくも繁りて
  17. `虫のこゑすずろに悲し
  1. `此秋のわびしきは我身ひとつぞと思ひつづくるに
  2. `天雲のよそにも同じなげきありて
  3. `ならびたる新壠あり
  4. `ここに詣づる女の
  5. `世にも悲しげなるして
  6. `花をたむけ水をぎたるを見て
  7. `あな哀れ
  8. `わかき御許のかく気疎きあら野にさまよひ給ふよといふに
  9. `女かへり見て
  10. `我身夕々ごとに詣で侍るに
  11. `殿はかならず前に詣で給ふ
  12. `さりがたき御方に別れ給ふにてやまさん
  13. `御心のうちはかり奉らせて悲しと潜然となく
  1. `正大郎いふ
  2. `さる事に侍り
  3. `十日ばかりさきにかなしきをうしなひたるが
  4. `世に残りてなく侍れば
  5. `ここに詣づることをこそ心放にものし侍るなれ
  6. `御許にもさこそましますなるべし
  7. `女いふ
  8. `かく詣でつかうまつるは
  9. `憑みつる君の御跡にて
  10. `いついつの日ここに葬り奉る
  11. `家に残ります女君のあまりに嘆かせ給ひて
  12. `此頃はむつかしき病に染ませ給ふなれば
  13. `かくかはりまゐらせて
  14. `香花をはこび侍るなりといふ
  1. `正太郎いふ
  2. `刀自の君の病み給ふもいとことわりなるものを
  3. `そも古人は何人にて
  4. `家は何地に住ませ給ふや
  5. `女いふ
  6. `憑みつる君は
  7. `此国にてはゆゑある御方なりしが
  8. `人の讒にあひて領所をも失い
  9. `今は此野のに詫しくて住ませ給ふ
  10. `女君は国のとなりまでも聞え給ふ美人なるが
  11. `此君によりてぞ家所領をも亡くし給ひぬれとかたる
  12. `此物がたりに心のうつるとはなくて
  13. `さてしもその君のはかなくて住ませ給ふは
  14. `ここ近きにや
  15. `訪らひまゐらせて
  16. `同じをもかたりまん
  17. `倶し給へといふ
  18. `家は殿の来らせ給ふ道のすこし引き入りたる方なり
  19. `便なくませば時々訪はせ給へ
  20. `待ち詫び給はんものをとに立ちてあゆむ
  1. `二丁あまりを来てほそき径あり
  2. `ここよりも一丁ばかりをあゆみて
  3. `をぐらき林の裏にちひいさき草屋あり
  4. `竹ののわびしきに
  5. `七日あまりの月のあかくさし入りて
  6. `ほどなき庭の荒れたるさへ見ゆ
  7. `ほそき灯火の光窓の紙をもりてうらさびし
  8. `ここに待たせ給へとて内に入りぬ
  9. `苔むしたる古井のもとに立ちて見入るに
  10. `唐紙すこし開けたるより
  11. `火影吹きあふちて
  12. `黒棚のきらめきたるもゆかしく覚ゆ
  1. `女出で来りて
  2. `御訪ひのよし申しつるに
  3. `入らせ給へ
  4. `物隔ててかたりまゐらせんと端の方へ膝行り出で給ふ
  5. `彼所に入らせ給へとて
  6. `前栽をめぐりて奥のかたへともなひ行く
  7. `二間の客殿を人の入るばかり明けて
  8. `低き屏風を立て
  9. `古き衾の端出でて主はここにありと見えたり
  10. `正太郎かなたに向ひて
  11. `はかなくて病にさへ染ませ給ふよし
  12. `おのれもいとほしき妻をひて侍れば
  13. `おなじ悲をも問ひかはしまゐらせんとて
  14. `推して詣で侍りぬといふ
  1. `あるじの女屏風すこし引きあけて
  2. `めづらしくもあひ見奉るものかな
  3. `つらき報の程しらせまゐらせんといふに
  4. `驚きて見れば
  5. `古郷に残しし磯良なり
  6. `顔の色いと青ざめて
  7. `たゆきすさまじく
  8. `我を指したる手の青くほそりたる恐しさに
  9. `あなやと叫んでたふれ死す
  1. `時うつりて生き出で
  2. `眼をほそくひらき見るに
  3. `家と見しはもとありし荒野の三昧堂にて
  4. `黒き仏のみぞ立たせまします
  5. `里遠き犬の声を力に
  6. `家に走りかへりて
  7. `彦六にしかじかのよしをかたりければ
  8. `なでふ狐に欺かれしなるべし
  9. `心の臆れたるときはかならず迷はし神のふものぞ
  10. `足下のごとく虚弱人のかくに沈みしは
  11. `神仏に祈りて心を収めつべし
  12. `刀田の里にたふとき陰陽師のいます
  13. `身禊して厭符をも戴き給へと
  14. `いざなひて陰陽師の許にゆき
  15. `はじめより詳にかたりて此をもとむ
  1. `陰陽師べ考へていふ
  2. `すでにりて易からず
  3. `さきに女の命をうばひ
  4. `怨猶尽きず
  5. `足下の命も旦夕にせまる
  6. `此鬼世をさりぬるは七日なれば
  7. `今日より四十二日が間戸をてておもき物齊すべし
  8. `を守らば九死を出でて全からんか
  9. `一時を過るともまぬかるべからずと
  10. `かたくをしへて筆をとり
  11. `正大郎が背より手足におよぶまで
  12. `篆籀の如き文字を書き
  13. `猶朱符あまた紙にしるして与へ
  14. `を戸毎にして神仏を念ずべし
  15. `あやまちして身を亡ぶることなかれと教ふるに
  16. `恐れみ且よろこびて家にかへり
  17. `朱符を門に貼し窓に貼して
  18. `おもき物齊にこもりける
  1. `其夜三更の比おそろしきこゑして
  2. `あなにくや
  3. `ここにたふとき符文を設けつるよと
  4. `つぶやきて復び声なし
  5. `おそろしさのあまりに長き夜をかこつ
  1. `程なく夜明けぬるに生出でて
  2. `急ぎ彦六が方の壁を敲きての事をかたる
  3. `彦六もはじめて陰陽師が詞を奇なりとして
  4. `おのれも其夜は寝ねずして三更の比を待ちくれける
  5. `松ふく風物をすが如く
  6. `雨さへふりてならぬ夜のさまに
  7. `壁を隔てて声をかけあひ
  8. `既に四更にいたる
  9. `下屋の窓の紙にさと赤き光さして
  10. `あな悪や
  11. `ここにも貼しつるよといふ声
  12. `深き夜にはいとどじく
  13. `髪も生毛もことごとく聳立ちて
  14. `しばらくは死に入りたり
  1. `明くれば夜の様をかたり
  2. `暮るれば明くるを慕ひて
  3. `此月日頃千歳をすぐるよりも久し
  4. `かの鬼も夜ごとに家を
  5. `或は屋の棟に叫びて
  6. `忿れる声夜ましにすさまじ
  1. `かくして四十二日といふ其夜にいたりぬ
  2. `今は一夜にみたしぬれば
  3. `殊に慎みてやや五更のもしらじらと明けわたりぬ
  4. `長き夢のさめたる如く
  5. `やがて彦六をよぶに
  6. `壁によりていかにと答ふ
  7. `おもき物いみも既に満てぬ
  8. `絶えて兄長を見ず
  9. `なつかしさに
  10. `且此月頃の憂さしさを心のかぎりいひまん
  11. `さまし給へ我も外の方に出でんといふ
  12. `彦六用意なき男なれば
  13. `今は何かあらん
  14. `いざこなたへわたり給へと
  15. `戸を明る事ならず
  16. `となりの軒にあなやと叫ぶ声耳をつらぬきて
  17. `思はず尻居に坐す
  1. `こは正太郎が身のうへにこそと
  2. `斧引提て大路に出づれば
  3. `明けたるといひし夜は未だくらく
  4. `月は中天ながら影朧々として風冷やかに
  5. `さて正太郎が戸は明け放して其人は見えず
  6. `内にや逃げ入りつらんと走り入りて見れども
  7. `いづくに竄るべき住居にもあらねば
  8. `大路にや倒れけんと求むれども
  9. `其わたりには物もなし
  10. `いかになりつるやと
  11. `あるは異しみ或は恐る恐る
  12. `ともし火を挑げてここかしこを見廻るに
  13. `明けたる戸腋の壁に
  14. `腥々しき血ぎ流れて地につたふ
  15. `されど屍も骨も見えず
  16. `月あかりに見れば
  17. `軒のにものあり
  18. `ともし火を捧げて照し見るに
  19. `男の髪の髻ばかりかかりて
  20. `外には露ばかりの物もなし
  21. `浅ましくもおそろしさは筆につくすべうもあらずなん
  22. `夜も明けてちかき野山を探しもとむれども
  23. `つひに其跡さへなくてやみぬ
  1. `此事井沢が家へもいひおくりぬれば
  2. `涙ながらに香央にも告げしらせぬ
  3. `されば陰陽師がのいちじるき
  4. `御釜の凶祥もはた違はざりけるぞ
  5. `いともたふとかりけるとかたり伝へけり