原文
- `いつの時代なりけん
- `紀の国三輪が崎に
- `大宅の竹助といふ人ありけり
- `此人海の幸ありて
- `海郎どもあまた養ひ
- `鰭の広物狭き物を尽してすなどり
- `家豊に暮しける
- `男子二人女子一人をもてり
- `太郎は質朴にてよくなりはひを治む
- `二郎の女子は大和の人の嬬に迎へられて彼所にゆく
- `三郎の豊雄なるものあり
- `生長優しく
- `常に都風たる事をのみ好て
- `過活心なかりけり
- `父是を憂ひつつ思ふは
- `家財をわかちたりとも即て人の物となさん
- `さりとて他の家を嗣がしめんもはたうたてき事聞くらんが病しき
- `只なすままに生し立てて
- `博士にもなれかし
- `法師にもなれかし
- `命の極は太郎がほだし物にてあらせんとて
- `強ひて掟をもせざりけり
- `此豊雄
- `新宮の神奴安倍の弓麿を師として行き通ひける
- `九月下旬
- `けふは殊になごりなく和ぎたる海の
- `暴に東南の雲を生して小雨そぼふり来る
- `師が許にて傘かりて帰るに
- `飛鳥の神秀倉見やらるる辺より
- `雨もやや頻なれば
- `其所なる海郎が屋に立ちよる
- `あるじの老はひ出でて
- `こは大人の弟子の君にてます
- `かく賤しき所に入らせ給ふぞいと恐りたる事
- `是敷きて奉らんとて
- `円座の汚げなるを清めてまゐらす
- `霎時息むるほどは何か厭ふべき
- `なあわただしくせそとて休らひぬ
- `外の方に麗しき声して
- `此軒しばし恵ませ給へといひつつ入り来るを奇しと見るに
- `年は二十にたらぬ女の
- `顔容髪のかかりいと艶ひやかに
- `遠山ずりの色よき衣着て
- `了鬟の十四五ばかりなるの清げなるに
- `包みし物もたせ
- `しとどに濡れてわびしげなるが
- `豊雄を見て
- `面さと打ち赤めて恥づかしげなる形の貴やかなるに
- `不慮に心動きて且思ふは
- `此辺にかうよろしき人の住むらんを今まで聞かぬことはあらじを
- `此は都人の三山詣せし次に
- `海愛らしくここに遊ぶらん
- `さりとて男たつ者もつれざるぞいとはしたなる事かなと思ひつつ
- `すこし身退きて
- `ここに入らせ給へ
- `雨もやがてぞ休みなんといふ
- `女しばし宥させ給へとて
- `ほどなき住ひなればつひ並ぶやうに居るを
- `見るに近まさりして
- `此世の人とも思はれぬばかり美しきに
- `心も空にかへる思して
- `女にむかひ
- `貴なるわたりの御方とは見奉るが
- `三山詣やし給ふらん
- `峰の温泉にや出で立ち給ふらん
- `かうすさまじき荒礒を何の見所ありて狩りくらし給ふ
- `ここなんいにしへの人の
- `くるしくもふりくる雨か三輪が崎佐野のわたりに家もあらなくに
- `とよめるは
- `まことけふのあはれなりける
- `此家賤しけれど
- `おのれが親の目かくる男なり
- `心ゆりて雨休め給へ
- `そもいづ地旅の御宿とはし給ふ
- `御見送せんも却りて無礼なれば
- `此傘もて出で給へといふ
- `女いと喜しき御心を聞え給ふ
- `其御おもひに乾してまゐりなん
- `都のものにてもあらず
- `此近き所に年来住ごし侍るが
- `けふなんよき日とて那智に詣で侍るを
- `暴なる雨の恐しさに
- `やどらせ給ふともしらでわりなくも立ちよりて侍る
- `ここより遠からねば
- `此小休に出で侍らんといふを
- `強ちに此傘もてゆき給へ
- `何の便にも求めなん
- `雨は更に休みたりともなきを
- `さて御住居は何方ぞ
- `是より仕へ奉らんといへば
- `新宮の辺にて
- `県の真女子が家はと尋ね給はれ
- `日も暮れなん
- `御恵のほどを指し戴きて帰りなんとて
- `傘とりて出づるを見送りつも
- `あるじが蓑笠かりて家に帰りしかど
- `猶俤の露忘れがたく
- `しばしまどろむ暁の夢に
- `かの真女子が家に尋ねゆきて見れば
- `門も家もいと大きに造りなし
- `蔀おろし簾垂れこめて
- `ゆかしげに住みなしたり
- `真女子出で迎へて
- `御情わすれがたく待ち恋ひ奉る
- `此方に入らせ給へとて奥の方にいざなひ
- `酒菓子種々と管待しつつ
- `喜しき酔ひごこちに
- `つひに枕をともにしてかたるとおもへば
- `夜明けて夢さめぬ
- `現ならましかばと思ふ心のいそがしきに
- `朝食も打ち忘れてうかれ出でぬ
- `新宮の郷に来て県の真女子が家はと尋ぬるに
- `更にしりたる人なし
- `午時かたぶくまで尋ね労ひたるに
- `かの了鬟東の方よりあゆみ来る
- `豊雄見るより大に喜び
- `娘子の家はいづくぞ
- `傘もとむとて尋ね来るといふ
- `了鬟打ちゑみて
- `よくも来ませり
- `こなたに歩み給へとて
- `前に立てゆくゆく
- `幾ほどもなく
- `ここぞと聞ゆる所を見るに
- `門高く造りなし家も大きなり
- `蔀おろし簾たれこめしまで
- `夢の裏に見しと露違はぬを
- `怪しと思ふおもふ門に入る
- `了鬟走り入て
- `傘の主詣でたまふを誘ひ奉るといへば
- `いづ方にますぞ
- `こち迎へませといひつつ立ち出づるは真女子なり
- `豊雄
- `ここに安倍の大人とまをすは
- `年来物学ぶ師にてます
- `彼所に詣づる便に傘とりて帰るとて推して参りぬ
- `御住居見おきて侍れば又こそ詣で来んといふを
- `真女子強ちにとどめて
- `まろや努いだし奉るなといへば
- `了鬟立ちふたがりて
- `おほがさ強ひて恵ませ給ふならずや
- `其がむくひに強ひてとどめまゐらすとて
- `腰を押して南面の所に迎へける
- `板敷の間に床畳を設けて
- `几帳
- `御厨子の飾
- `壁代の絵なども
- `皆古代のよき物にて
- `倫の人の住居ならず
- `真女子立ち出でて
- `故ありて人なき家とはなりぬれば
- `実かなる御饗もえし奉らず
- `只薄き酒一杯すすめ奉らんとて
- `高杯平杯の清らなるに
- `海の物山の物盛りならべて
- `瓶子土器挙げて
- `まろや酌まゐる
- `豊雄また夢心してさむるやと思へど
- `正に現なるを却りて奇しみゐたる
- `客も主もともに酔ひごこちなるとき
- `真女子杯をあげて豊雄にむかひ
- `花精妙桜が枝の水にうつろひなす面に
- `春吹く風をあやなし
- `梢たちぐく鴬の艶ある声していひ出づるは
- `面なきことのいはでやみなんも
- `いづれの神になき名負すらんかし
- `努徒なる言にな聞き給ひそ
- `故は都の生れなるが
- `父にも母にもはやう離れまゐらせて
- `乳母の許に成長りしを
- `此国の受領の下司
- `県の何某に迎へられて伴ひ下りしははやく三とせになりぬ
- `夫は任はてぬこの春
- `かりそめの病に死し給ひしかば
- `便なき身とはなり侍る
- `都の乳母も尼になりて
- `行方なき修行に出でしと聞けば
- `彼方も亦しらぬ国とはなりぬるをあはれみ給へ
- `きのふの雨のやどりの御恵に
- `信ある御方にこそとおもふ物から
- `今より後の齢をもて御宮仕し奉らばやと願ふを
- `きたなき物に捨て給はずば
- `此一杯に千とせの契をはじめなんといふ
- `豊雄もとより
- `かかるをこそと乱心なる思ひ妻なれば
- `塒の鳥の飛び立つばかりには思へど
- `おのが世ならぬ身を顧れば
- `親兄弟のゆるしなき事をと
- `かつ喜しみ
- `且恐れみて
- `頓に答ふべき詞なきを
- `真女子わびしがりて
- `女の浅き心より嗚呼なる事をいひ出でて
- `帰るべき道なきこそ面なけれ
- `かう浅ましき身を海にも没らで
- `人の御心を煩はし奉るは罪深きこと
- `今の詞は徒ならねども
- `只酔ひごこちの狂言におぼしとりて
- `ここの海にすて給へかしといふ
- `豊雄はじめより
- `都人の貴なる御方とは見奉るこそ賢かりき
- `鯨よる浜に生ひ立ちし身の
- `かく喜しきこといつかは聞ゆべき
- `即ての御答もせぬは
- `親兄に仕ふる身の
- `おのが物とては爪髪の外なし
- `何を禄に迎へまゐらせん便もなければ
- `身の徳なきを悔ゆるばかりなり
- `何事をもぞおぼし耐へ給はば
- `いかにもいかにも後見し奉らん
- `孔子さへ倒るる恋の山には
- `孝をも身をも忘れてといへば
- `いと喜しき御心を聞えまゐらするうへは
- `貧しくとも時々ここに住ませ給へ
- `ここに前の夫の二つなき宝にめで給ふ帯あり
- `これ常に帯かせ給へとてあたふるを見れば
- `金銀を飾りたる太刀の
- `あやしきまで鍛ふたる古代の物なりける
- `物のはじめに辞みなんは祥あしければとてとりて納む
- `今夜はここにあかさせ給へとて
- `あながちにとどむれど
- `まだ赦なき旅寝は親の罪し給はん
- `明の夜よく偽りて詣でなんとて出でぬ
- `其夜も寝ねがてに明けゆく
- `太郎は網子ととのふるとて晨めて起き出で
- `豊雄が閨房の戸の間をふと見入りたるに
- `消え残りたる灯火の影に
- `きらきらしき太刀を枕に置きて臥したり
- `あやし
- `いづちより求ぬらんとおぼつかなくて
- `戸をあららかに明くる音に目さめぬ
- `太郎があるを見て
- `召し給ふかといへば
- `きらきらしき物を枕に置きしは何ぞ
- `価貴き物は海人の家にふさはしからず
- `父の見給はばいかに罪し給はんといふ
- `豊雄
- `財を費して買ひたるにもあらず
- `きのふ人の得させしをここに置きしなり
- `太郎
- `いかでさる宝をくるる人此辺にあるべき
- `あなむつかしの唐言書きたる物を買ひたむるさへ
- `世の費なりと思へど
- `父の黙りておはすれば今までもいはざるなり
- `其太刀帯びて大宮の祭を練るやらん
- `いかに物に狂ふぞといふ声の高きに
- `父聞きつけて徒者が何事をか仕出でつる
- `ここにつれ来よ太郎と呼ぶに
- `いづちにて求めぬらん
- `軍将等の佩き給ふべき
- `きらきらしき物を買ひたるはよからぬ事
- `御目のあたりに召して問ひあきらめ給へ
- `おのれは網子どもの怠るらんといひ捨てて出でぬ
- `母豊雄を召して
- `さる物何の料に買ひつるぞ
- `米も銭も太郎が物なり
- `わぬしが物とて何をか持ちたる
- `日来は為すままに置きつるを
- `かくて太郎に悪まれなば
- `天地の中に何国に住むらん
- `賢き事をも学びたる者が
- `など是ほどの事わいためぬぞといふ
- `豊雄
- `実に買ひたる物にあらず
- `さる由縁有りて人の得させしを
- `兄の見咎めてかくのたまふなり
- `父
- `何の誉ありてさる宝をば人のくれたるぞ
- `更におぼつかなき事
- `只今所縁かたり出でよと罵る
- `豊雄
- `此事只今は面俯なり
- `人伝に申し出で侍らんといへば
- `親兄にいはぬ事を誰にかいふぞと声あららかなるを
- `太郎の嫁の刀自傍にありて
- `此事愚なりとも聞き侍らん
- `入らせ給へと宥むるに
- `つひ立ちて入りぬ
- `豊雄刀自にむかひて
- `兄の見咎め給はずとも
- `密に姉君をかたらひてんと思ひ設けつるに
- `速く責まるる事よ
- `かうかうの人の女のはかなくてあるが
- `後身してよとて賜へるなり
- `己が世しらぬ身の
- `御赦さへなき事は重き勘当なるべければ
- `今さら悔ゆるばかりなるを
- `姉君よく憐み給へといふ
- `刀自打ち笑みて
- `男子のひとり寝し給ふが
- `兼ていとほしかりつるに
- `いとよき事ぞ
- `愚なりともよくいひとり侍らんとて
- `某夜太郎に
- `かうかうの事なるは幸におぼさずや
- `父君の前をもよきにいひなし給へといふ
- `太郎眉を顰めて
- `あやし
- `此国の守の下司に県の何某と云ふ人を聞かず
- `我家保正なればさる人の亡くなり給ひしを聞えぬ事あらじを
- `まず太刀ここにとりて来よといふに
- `刀自やがて携へ来るをよくよく見をはりて
- `長嘘をつぎつつもいふは
- `ここに恐しき事あり
- `近来都の大臣殿の御願の事みためしめ給ひて
- `権現におほくの宝を奉り給ふ
- `さるに此神宝ども
- `御宝蔵の中にて頓に失せしとて
- `大宮司より国の守に訴へ出で給ふ
- `守此賊を探り捕らんために
- `助の君文室の広之
- `大宮司の館に来て
- `今もはらに此事をはかり給ふ由を聞きぬ
- `此太刀いかさまにも下司などの帯くべき物にあらず
- `猶父に見せ奉らんとて
- `御前に持ちゆきて
- `かうかうの恐しき事のあなるはいかが計らひ申さんといふ
- `父面を青くして
- `こは浅ましき事の出できつるかな
- `日来は一毛をもぬかざるが
- `何の報にてかう良らぬ心や出できぬらん
- `他よりあらはれなば此家をも絶されん
- `祖の為子孫の為には不孝の子一人惜からじ
- `明は訴へ出でよといふ
- `太郎夜の明くるを待ちて大宮司の館に来り
- `しかじかのよしを申し出でて
- `此太刀を見せ奉るに
- `大宮司驚きて
- `是なん大臣殿の献物なりといふに
- `助聞き給ひて猶失し物問ひあきらめん
- `召捕れとて武士等十人ばかり
- `太郎を前にたててゆく
- `豊雄
- `かかる事をも知らで書見ゐたるを
- `武士等押かかりて捕ふ
- `こは何の罪ぞといふをも聞き入れず縛めぬ
- `父母太郎夫婦も今は浅ましと嘆きまどふばかりなり
- `公庁より召し給ふ
- `疾あゆめとて中にとりこめて館に追ひもてゆく
- `助豊雄をにらまへて
- `汝神宝を盗みとりしは例なき国津罪なり
- `猶種々の財はいづ地に隠したる
- `明かにまをせといふ
- `豊雄漸此事を覚り
- `涙を流して
- `おのれ更に盗をなさず
- `かうかうの事にて県の何某の女が
- `前の夫の帯びたるなりとて得させしなり
- `今にもかの女召して
- `おのれが罪なき事を覚らせ給へ
- `助いよよ怒りて
- `我下司に県の姓を名のる者ある事なし
- `かく偽るは刑ますます大なり
- `豊雄
- `かく捕はれていつまで偽るべき
- `あはれかの女召して問はせ給へ
- `助武士等に向ひて
- `県の真女子が家はいづくなるぞ
- `渠を押して捕へ来れといふ
- `武士等かしこまりて
- `又豊雄を押したてて彼所に行きて見るに
- `厳しく造りなせし門の柱も朽ち腐り
- `軒の瓦も大かたは砕けおちて
- `草しのぶ生ひさがり
- `人住むとは見えず
- `豊雄是を見て只あきれにあきれゐたる
- `武士等かけ廻りて
- `ちかきとなりを召しあつむ
- `木きる老
- `米かつ男等恐れ惑ひて跪る
- `武士他等にむかひて
- `此家何者が住みしぞ
- `県の何某が女のここにあるはまことかといふに
- `鍛冶の翁はひ出でて
- `さる人の名はかけてもうけ給はらず
- `此家三とせばかり前までは
- `村主の何某といふ人の
- `賑はしくて住み侍るが
- `筑紫に商物積みてくだりし
- `其船行方なくなりて後は
- `家に残る人も散りぢりになりぬるより
- `絶えて人の住むことなきを
- `此男のきのふここに入りて
- `漸して帰りしを奇しとて
- `此塗師の老が申されしといふに
- `さもあれ
- `よく見極めて殿に申さんとて
- `門押ひらきて入る
- `家は外よりも荒れまさりけり
- `なほ奥の方に進みゆく
- `前栽広く造りなしたり
- `池は水あせて水草も皆枯れ
- `野ら薮生ひかたぶきたる中に
- `大きなる松の吹き倒れたるぞ物すさまじ
- `客殿の格子戸をひらけば
- `腥き風のさと吹おくりきたるに恐れまどひて
- `人々後にしりぞく
- `豊雄只声を呑みて嘆きゐる
- `武士の中に巨勢の熊梼なる者
- `胆ふとき男にて
- `人々我後につきて来れとて
- `板敷をあららかに踏みて進みゆく
- `塵は一寸ばかり積りたり
- `鼠の糞ひりちらしたる中に
- `古き帳を立て
- `花の如くなる女ひとりぞ座る
- `熊梼女にむかひて
- `国の守の召しつるぞ
- `急ぎまゐれといへど
- `答へもせであるを
- `近く進みて捕ふとせしに
- `忽ち地も裂くるばかりの霹靂鳴り響くに
- `許多の人逃ぐる間もなくてそこに倒る
- `さて見るに
- `女はいづち行きけん見えずなりにけり