現代語訳
- `下総の国葛飾郡の真間の郷に
- `勝四郎という男がいた
- `祖父の代よりこの地に住み
- `多くの田畑の主となって豊かに暮らしていたが
- `大人になっても無頓着な性分から
- `田畑仕事の苦労を嫌がるうち
- `ついに家は貧しくなった
- `そのうち親族の多くにも疎んじられるようになったのを
- `つくづく悔しいと思い
- `なんとしても家を再興せねば、と色々策を考えていた
- `その頃、雀部の曽次という人が
- `足利染の絹の行商で
- `毎年京より下り
- `この郷に住む親戚を
- `しばしば訪ねており
- `かねてより親しかったので
- `商人になって京へ上りたいと頼んだところ
- `雀部は二つ返事で引き受け
- `ではいつ頃来たらよかろう、と訊いた
- `その頼もしさが嬉しく
- `残る田を皆売り払って金に代え
- `絹をたくさん買い込んで
- `京へ行く日に備えていた
- `勝四郎の妻の宮木という女は
- `人の目を止めるほど美しく
- `気立てもよかった
- `このたび勝四郎が商物を買い込んで京へ上るというのを気がかりに思い
- `ことばを尽して諫めたが
- `逸る気性はどうしようもなく
- `後の暮らしは心細くなるとも
- `望むように支度を整え
- `その夜は惜別の思い語り
- `頼れるものを失う女心は
- `ただ野山をさまようごとき
- `憂えの限りです
- `朝な夕なにお忘れにならず
- `早くお戻りください
- `命さえあればと思うものの
- `明日をも知れぬのが世の習い
- `勇む心はおありでも、どうぞ私を哀れみください、と言えば
- `どうして、浮木に乗るやも
- `知れぬ他国に長居などしようか
- `葛の裏葉が返るこの秋に戻ってこよう
- `心を強く持って待ちなさい、と慰めるうちに
- `夜も明けたので
- `鳥の鳴く東国を発って京へと急いだ
- `今年享徳の夏
- `鎌倉の御所・足利成氏朝臣と
- `関東管領・上杉憲忠の仲が裂け
- `館は戦火に跡形もなく消え
- `成氏が古河公方の味方へと落ち延びれば
- `関東はたちまち混乱し
- `人の心は皆ちりぢりとなり
- `年寄りは山に逃げ隠れ
- `若者は合戦に駆り出され
- `今日はここを焼き払う
- `明日は敵が寄せ来るぞと
- `女子供はあちこち逃げ惑い泣き悲しんだ
- `勝四郎の妻というのも
- `どこかへ逃げようと思いはすれども
- `秋を待てとの夫の言葉を信じつつ
- `不安を抱え日を数えて暮らしていた
- `秋になっても風の便りひとつなく
- `世とともに頼りにならなくなった人の心かな、と
- `恨み悲しみ思い崩れて
- `身の憂さは人告げぬから、逢坂の夕告鳥よ告げておくれ、秋も暮れたと
- `と詠んではみたが
- `国を幾つも隔てては
- `届ける術もなく
- `世が騒がしくなるにつれ
- `人の心も荒んでいった
- `時折訪ねてくる男も
- `宮木の美貌に惚れ込んで
- `あれこれと誘惑してきたが
- `操を守ってつれなくふるまい
- `後は戸を閉ざして現れなかった
- `ただ一人いた下女も去り
- `僅かな貯蓄も底を尽き
- `年が暮れていった
- `年は改まっても混乱は少しも収まらず
- `さらに去年の秋、将軍の下知により
- `美濃国郡上の領主である
- `下野守・東常縁が征伐軍の旗を受け
- `下野の領地へ赴き
- `親類・千葉実胤と謀って攻め
- `成氏陣営も必死の防戦
- `いつ果てるとも知れず
- `山賊どもがあちらこちらに塞を構え
- `火を放って財宝を奪った
- `関八州どこにも安心できる土地はなく
- `たいへんな世の損失となった
- `勝四郎は雀部に従って京へ行き
- `絹などを残すことなく売りさばき
- `当時は都で華美なものが好まれていたこともあって
- `しっかり儲け東へ帰る支度をしていたが
- `今度は上杉の軍勢が鎌倉の御所を攻め落とし
- `追い討ちをかけたため
- `故郷の辺りは盾や矛が満ち
- `逐鹿戦の地と化した、と耳にした
- `目の前すら偽りの多い巷の噂であるが
- `まして白雲が八重に隔たる国のこと
- `気が気ではなく
- `八月始めに京を発ち
- `木曽の馬籠を一日で越えたが
- `山賊どもに道を塞がれ
- `荷物を残らず奪われた上
- `人の語った話を聞けば
- `ここから東は点々と新たな関所が設けられ
- `旅人の往来を許さぬとのこと
- `となれば消息を知らせる手立てもない
- `家も戦火に焼かれたか
- `妻ももはや生きてはいまい
- `それなら故郷も鬼の住処となっているだろう、と
- `ここからまた京へ引き返そうと
- `近江国へと入ったところでにわかに具合が悪くなり
- `熱病を患った
- `武佐という所に
- `児玉嘉兵衛という裕福な者がいた
- `そこは雀部の妻の実家であったので
- `懇ろに救いを求めると
- `彼は見捨てず介抱してくれ
- `医者まで呼んで薬を与えてくれた
- `やがて具合もよくなったので
- `厚い情けに感謝した
- `しかし歩くことはまだおぼつかず
- `今年は図らずもここで春を迎えると
- `いつしかこの里にも友ができ
- `生来の実直な心を褒められ
- `児玉をはじめ誰も彼も頼れる仲となった
- `その後京へ出て雀部を訪れ
- `また近江へ帰って児玉に身を寄せ
- `七年ほどを夢のように過ごした
- `寛正十二年
- `畿内河内国で畠山持国の子・義就と甥・政長の内輪の争いは尽きることなく
- `京の周辺も騒がしく
- `春頃から疫病が蔓延し
- `屍は巷に重なり
- `人の心ももはや尽きるかと
- `世の無情を嘆き悲しんだ
- `勝四郎もあれこれ考え
- `こう落ちぶれてすることもない身なのに
- `何を頼りにこんな遠い国に留まり
- `縁もゆかりもない人の恩恵を受け
- `いつまで生きようというのか
- `故郷に置き去りにした人の消息さえ知らず
- `忘れ草の生い茂る野原で長々と年月を過ごしていたのは
- `誠意なき我が心というもの
- `たとえ黄泉の国の住人となり
- `この世にはなくとも
- `跡を探し出し塚を築こう、と
- `人々に志を告げ
- `五月雨の晴れ間に別れて
- `十日あまりを経て故郷へ帰り着いた
- `このとき日は既に西に沈み
- `雨雲落ちかかるほどに暗かったが
- `久しく住み慣れた里だから
- `迷うこともあるまいと
- `夏草の茂る野をかき分け行けば
- `昔あった継橋も川の瀬に落ち
- `馬の足音すらせず
- `田畑は荒れ放題で元の道も分からず
- `あったはずの家もない
- `まれに点在する家に人の住む様子が窺えもするが
- `昔とは似ても似つかず
- `いずれが我が家かと戸惑っていると
- `そこから二十歩ほど離れたところに
- `雷に裂かれた松がそびえているのが
- `雲間の星の光で見え
- `まさしく我が家の目印だと
- `まず嬉しく思って歩いて行けば
- `家は何も変わらずそこにあり
- `人も住んでいると思しく
- `古い戸の隙間から灯火の影が漏れ
- `きらめいているところを見ると他人が住んでいるのか
- `もしや妻がいるのかと、心は騒ぎ
- `門に立って咳をすると
- `中でもすぐに聞き取ったようで、どなた、と訊く
- `ひどく老けた感じはしたがまさしく妻の声のように思え
- `これ夢かと胸騒ぎ
- `私だ、帰ってきたよ
- `何も変わらずおまえひとり浅茅が原に
- `住んでいるのに驚いたよ、と言えば
- `聞き覚えがあると思しくやがて戸を開けたところ
- `ひどく黒ずみ垢がつき
- `目は落ちくぼみ
- `結った髪も背にかかり
- `とても元の妻とは思われぬ女が
- `夫を見て何も言わずにさめざめと泣いた
- `勝四郎も呆然として
- `しばしは何も言えなかったが
- `少しして
- `今までこんな風に暮らしていると思っていたなら
- `どうして長い年月を過ごしただろうか
- `去る年京にいた折に
- `鎌倉の戦を耳にしたが
- `御所軍は敗れ
- `総州へ退いての防戦となり
- `管領がこれを激しく攻めていたという
- `その翌日雀部と別れ
- `八月始めに京を発ち
- `木曽路を来たが
- `数多の山賊に取り囲まれ
- `衣服金銀残らず奪われ
- `命だけ辛うじて助かった
- `そのとき里人の語るを聞けば
- `東海道・東山道は
- `みな新たな関所ができて人々を留めているとのことだった
- `また昨日京より節度使・東下野守が下って
- `上杉勢に味方し
- `総州の陣へと向かわれた
- `この辺りはとっくに焼き払われて
- `隙間もないほど馬の蹄ばかりだというのを聞いて
- `もはやみな灰塵となったのか
- `海に沈んでしまったかと
- `ただ思うばかり
- `再び京に戻ってからは
- `人に養ってもらいながら七年を過ごした
- `最近無性に懐かしくなって
- `せめてその跡だけでも見たいと帰ってきたが
- `こうして生きていようとはゆめゆめ思いもしなかった
- `これは巫山の雲か漢宮の幻か、と
- `繰り言を果てしなく続けた
- `妻は涙をこらえ
- `ひとたび別れて後
- `念願の秋が来る前に
- `恐ろしい世の中となり
- `里の人たちは皆家を捨てて海を漂い山へ隠れ
- `たまたま残った人たちは
- `残忍な心の持ち主となって
- `私が寡婦となったのをよいことに
- `言葉巧みに誘ってきましたが
- `玉と砕けようとも穢れてまでは生きるまい、と
- `幾たびかの辛苦を忍んできました
- `けれども天の川が秋を告げてもあなたは戻らず
- `冬を待ち、春を迎えても、便りはありませんでした
- `いっそ京へ上って探そうかとも思いはしましたが
- `大の男さえ許されぬ関所の鎖
- `どうして女の越えられる道などあろうかと
- `まつにかいなきこの宿で
- `狐や梟を友として今日まで過ごしてきました
- `今は長い恨みも晴れて嬉しい限りです
- `逢う日を待つ間に恋い死んでいたら人知れぬ恨みとなっていたでしょう、と
- `またよよと泣くのを
- `夜は短いから、と
- `言い慰めて共に床に就いた
- `障子が松風をすすり鳴らす夜は涼しく
- `長い旅路に疲れてぐっすりと眠った
- `五更の空が明けゆく頃
- `おぼろな意識の中でそぞろに寒さを感じ
- `布団をかけようと探る手に
- `何かがさやさやと立てる音で目が覚めた
- `顔にひやひやと何かこぼれるのを
- `雨でも漏るのか、と思ってみれば
- `屋根は風にまくれて
- `白んだ有明の残月が見える
- `家は戸もなきがごとくで
- `簀垣の床の朽ちた隙間から
- `荻や薄が高く生え
- `朝露がこぼれて
- `袖を絞れば水の滴るほどである
- `壁には蔦や葛が延びかかり
- `庭はむぐらに埋もれ
- `秋でもないのに野良のような家となっていた
- `それにしても共に臥した妻はどこへ行ったのか姿が見えず
- `狐などの仕業か、とも思ったが
- `荒れ果てようとも昔住んでいた家には相違いなく
- `広い造りの奥の間あたりから、端の方
- `米蔵まで我が好みのままである
- `呆然として足の踏み場を見失いそうになったが
- `つらつら思うに
- `妻は既に死に
- `今は狐狸の棲家となり
- `こんなあばら屋となってしまい
- `怪しい鬼が化けて
- `妻に姿を変えたか
- `もしかしたら自分を慕う魂が帰り来て過ごしたのか
- `思っていたことと少しも違うところはなかった、と
- `少しも涙は出なかった
- `我が身ひとつが昔のままだと歩き回れば
- `昔寝所であった部屋の簀子の床が払われ
- `土が積まれて塚となり
- `雨露を防ぐこしらえもあった
- `昨夜の霊はここから出たのか、と思えば恐ろしくも懐かしい
- `供えられた水入れの中には
- `木の端を削った板があり
- `貼られた那須野紙はひどく古びて
- `文字が消えかかってところどころ読めないが
- `まさしく妻の筆跡であった
- `戒名も年月も記されておらず
- `三十一字に今際の思いを哀れにも詠んでいた
- `それにしても、信じる心に騙されて、よくも今日まで生きた命よ
- `ここで初めて妻の死は確かだと知り
- `大声で叫び倒れ伏した
- `にもかかわらず、あさましくも何年何月に死んだのかすらわからない
- `誰か知る者がいるかも知れない、と
- `涙をこらえて外へ出れば
- `日はすでに高く昇っていた
- `まず近くの家へ行って主に会ったが
- `昔から見知る人ではなかった
- `逆に、どこの国の人か、と訊かれた
- `勝四郎はあいさつをし
- `隣家の主でしたが
- `生計を立てるため京で七年暮らし
- `昨夜帰ってきたものの
- `すっかり荒れ果てて人も住んでいませんでした
- `妻も死んでしまったらしく塚ができていたのを見つけはしましたが
- `いつの年とも知れず悲しんでおりました
- `もしご存じなら教えてください
- `主人の男は言う
- `なんとも哀れな話です
- `私がここに住むようになったのはここ一年ばかりのことですから
- `それよりずっと前に亡くなったのでしょう
- `隣に人がいた頃のことは知りません
- `この里に昔からいた人は戦乱が起きた頃に逃げてしまい
- `今住む人のほとんどは他の土地から移って来た人です
- `ただ一人おられる翁は
- `昔から住む人らしく
- `ときどきあの家に行き
- `亡くなった人の菩提を弔っておられるようです
- `その老人なら、命日をご存じでしょう、と言う
- `勝四郎は言う
- `それで、その翁の住まいはどこですか
- `主人は言う
- `ここから百歩ばかり浜の方の
- `麻をたくさん植えた畑の主で
- `そこに小さな庵を構えて住んでいます、と教えた
- `勝四郎が喜んでその家へ行ってみると
- `七十歳ほどのひどく腰の曲がった老人が
- `庭竈の前に円座を敷いて茶をすすっていた
- `老人も勝四郎と見るや否や
- `おぬし、なぜこんなに遅く帰って来たのか、と言うのを見れば
- `この里に昔から住む漆間の翁という人であった
- `勝四郎は、翁の長寿を祝い
- `次に京へ行って心ならずも留まった理由から
- `昨夜の怪しい出来事までを細かく語り
- `翁が塚を築いて弔ってくれたありがたさを告げながら
- `とめどなく涙を流した
- `翁は
- `おぬしが遠くへ行った後
- `夏頃から戦場と化し
- `里の者らはあちこちに逃れ
- `若者どもは兵に駆り出され
- `田畑はにわかに狐や兎の住む草むらとなってしまった
- `ただ頑なにお主の妻だけが、お主の秋に帰るという約束を信じて、女一人家を守っていた
- `わしもまた足が悪くて百歩進むのさえ難儀で
- `家に籠って外へ出ることがなかった
- `一旦は木霊などという恐ろしい鬼の住処となってしまったところに
- `若い女が気丈にも残っておったのだ
- `わしはあれほど心打たれるものを見たことがない
- `秋が去り春が来て
- `その年の八月十日に亡くなった
- `気の毒なあまり
- `わし自ら土を運んで棺を納め
- `今際に残された筆の跡を塚の印として手向けを心ばかりにしたのだが
- `わしは生来字を知らんので
- `その年月を記すことができなかった
- `寺も遠く
- `戒名を授かるすべもなく
- `五年が過ぎた
- `今の話だが
- `それは気丈な奥方の魂が来て
- `長年の恨みを語ったのだろう
- `もう一度そこへ行って懇ろに弔ってやりなされ、と
- `杖を突いて先に立つ
- `共に塚の前に伏して声を上げて泣きながら
- `その夜はそこで念仏を唱え明かした
- `眠れぬままに翁は語った
- `わしの祖父のそのまた祖父さえ生まれぬ遥か昔のこと
- `この郷に真間の手児女というとても美しい娘がいた
- `家が貧しかったので青衿の麻衣を着
- `髪さえけずらず、履物も履いていなかったが
- `その顔は夜の満月のごとく、笑めば花の匂うがごとく
- `綾錦をまとった都の貴婦人にも勝る、と
- `ここの里人はもとより
- `都の防人たちや、隣国の人までも
- `言い寄って恋い慕わぬ者はなかった
- `手児女はそれを憂えて思い悩み
- `みんなの気持ちに報えぬから、と
- `この入江の波に身を投げたのを
- `この世の哀れな例であると、昔の人は歌にも詠み伝えた
- `わしが幼いとき、母がしみじみと語ってくれたこの話でさえ
- `哀しく思いながら聞いていたのに
- `亡き人の心は昔の手児女のいじらしさにも増して悲しかった、と
- `語るうちにも涙ぐみこらえられなくなっていた
- `老いると何事にも堪えられなくなる
- `勝四郎の悲しみは言うべくもない