現代語訳
- `伊勢の相可という郷に
- `拝志という人がおり
- `代を早く次に譲り
- `不幸もないが髪を剃り
- `名を夢然と改めて
- `以前より身に病もなく
- `あちこちを旅寝するのを老いの楽しみとしていた
- `末の子・作之治という者が生来の頑なのを憂えて
- `京の人を見せようと
- `一月頃二条の別荘に留まり
- `三月の末
- `吉野の奥の花を見て
- `知れる寺院に七日ほど滞在して
- `そのついでに
- `まだ高野山を見ていない
- `さあ行こう、と夏の始め
- `青葉の茂みを分けつつ
- `天の川という所から越えて
- `摩尼の御山に着いた
- `道の行く手の険しさに行き悩み
- `思いもよらず日が傾いた
- `壇場・諸堂・霊廟
- `残らず拝み巡って
- `ここに泊めて下さい、と言ったが
- `まったく答える者がいない
- `そこを通る人にここの掟を聞けば
- `寺院・僧坊につてのない人は
- `麓に下って夜を明かすことになっています
- `この山ではすべて旅人に一夜を貸すことはありません、と語った
- `さて困った
- `どうにか老いの身で険しい山路を来た上に
- `事の由を聞いて大いに落胆し疲れてしまった
- `作之治が言う
- `日も暮れ、足も痛んで
- `どうやって長い道を下ればいいのでしょう
- `若い身は草に臥してもかまいませんが
- `ただ父上が病まれぬかと心配です
- `夢然は言う
- `旅はこういうことこそ趣というのだ
- `今宵足を痛め
- `くたびれて山を下っても
- `我らの故郷ではない
- `明日の路もまた測り難い
- `この山は我が国第一の霊場だ
- `大師の広徳は語り尽くせぬ
- `わざわざ来て夜通し祈り
- `後世のことを祈願すべきところだ
- `時期幸いだから
- `霊廟に夜通し法施をしよう、と
- `杉の下の暗い道を行き
- `霊廟の前の灯籠堂の簀子に上がって
- `雨具を敷いて座を設け
- `静かに念仏しつつ、夜の更けゆくを待ちわびていた
- `五十町四方に開け
- `怪しげな林も見えず
- `小石さえも掃った福田ながら
- `やはりここは寺院が遠く
- `陀羅尼や鈴錫の音も聞こえない
- `木立は雲をしのいで生い茂り
- `道を分ける水の音が
- `細々と澄み渡ってもの悲しい
- `眠れぬままに夢然は語って言う
- `そもそも大師の徳による教化
- `土石草木も霊を宿して
- `八百余年後の今に至り
- `いよいよあらたかであり、いよいよ貴い
- `大師の功績・遍歴は数々あるが
- `この山が第一の道場だ
- `大師が生きておられたその昔
- `遠く唐土にお渡りになり
- `その国でお感じになったことがあった
- `この煩悩を砕く三叉の金剛杵の留まる場所が
- `我が道を教える霊地である、と
- `暗い空に向かって放られると
- `この山に落ちたのだ
- `壇場の御前の三鈷の松こそ
- `それが落ち留まった地であると聞く
- `すべてこの山の草木泉石に
- `霊の宿らないものはないという
- `今宵不思議にもここに一夜をお借りしたことは
- `一世ならぬ善縁だ
- `おまえも若いからとて努々信心を怠ってはならんぞ、と
- `ささやかに語るも澄んで心細い
- `御廟の背後の林からと思しく
- `仏法仏法、と鳴く鳥の声が
- `山彦に応えて近くに聞こえる
- `夢然は目の覚める心地がし
- `なんと珍しい
- `あの鳴く鳥こそ仏法僧というのだろう
- `かねてよりこの山に棲んでいるとは聞いていたが
- `まさにその声を聞いたという人もないから
- `今宵の宿りは実に滅罪生善の前兆だろう
- `かの鳥は清浄の地を選んで棲むという
- `上野国の加葉山
- `下野国の二荒山
- `山城の醍醐の峰
- `河内の杵長山
- `とりわけこの山に棲むことは
- `大師の詩偈により世の人もよく知っている
- ``寒林の草堂でひとり暁に座り
- ``仏法僧の言葉を一羽の鳥の声に聞く
- ``一鳥に声あり、人に心あり
- ``性心も雲水と共に明瞭なり
- `また古い歌に
- `松の尾の峰静かなる曙に仰いで聞けば仏法僧鳴く
- `昔最福寺の延朗法師は
- `世に比類なき法華者であったが
- `松の尾の御神がこの鳥を常に延朗に仕えさせておられたと言い伝えられ
- `かの神垣にも棲むことは聞いている
- `今夜の不思議は既に一羽の声があったことだ
- `我がここにあって感動せずにいられようか、と
- `日頃のたしなみとする俳諧風の十七言を
- `しばし考えてから口にした
- `鳥の声も秘密の山の茂みかな
- `旅硯を取り出して御灯の光で書きつけ
- `いま一声鳴かないかと耳を傾けていると
- `思いがけず遠く寺院の方から
- `先払いの声が厳めしく聞こえて
- `次第に近づいて来た
- `誰がこんな夜更けにお参りなさるのか、と怪しくも恐ろしく
- `親子は顔を見合わせて息を殺し
- `そちらを見守っていると
- `まもなく前駆の若侍が橋板を荒々しく踏んでここへ来る
- `驚いて堂の右に潜み隠れているのを
- `武士は素早く見つけて
- `何者だ
- `殿下がお通りになる
- `すぐ下りよ、と言うので
- `慌ただしく簀子を下り
- `土に俯してうずくまった
- `ほどなく多くの足音が聞こえる中に
- `沓音が高く響いて
- `烏帽子・直衣を纏われた貴人が堂に上られると
- `従者の武士四五人ほどが左右に座を設けた
- `かの貴人は人々に向かって
- `誰々はなぜ来ない、と仰せになると
- `まもなく参るでしょう、と奏した
- `また一群の足音がして
- `威厳のある武士
- `頭を丸めた入道などが入り交じり
- `礼を奉って堂に昇った
- `貴人は今来た武士に向かい
- `常陸はどうして遅く参ったのか、と尋ねられると
- `かの武士は答えた
- `白江・熊谷の両士
- `公に大御酒を勧め奉る、と張り切っておりましたが
- `某も新鮮な物を一種差し上げようと
- `御従者に遅れてしまいました、と奏した
- `早く酒肴を連ねて勧め参らせれば
- `万作、酌をせよ、と命じられた
- `かしこまって、美貌の若侍が膝行り寄って瓶子を捧ぐ
- `あちらこちらに杯を巡らせてたいへん盛り上がっているようであった
- `貴人また曰く
- `しばらく紹巴の説話を聞かぬ
- `召せ、と仰ると
- `呼び継ぐようであったが
- `自分がうずくまる背後から
- `大きな法師の
- `平たい顔で目鼻立ちがくっきりとした人が
- `僧衣を整えて末座の参上した
- `貴人が古い話をあれこれ問われたことに
- `つまびらかに答え奉るのを
- `たいへん感心なさって
- `この者に褒美をとらせよ、と言われた
- `一人の武士が法師に問う
- `この山は弘法大師がお開きになり
- `土石草木も霊の宿っていないものはない聞く
- `にもかかわらず、玉川の流れには毒がある
- `人が飲むと死ぬので
- `大師が詠まれた歌として
- `忘れても汲んだだろうか旅人の高野の奥の玉川の水
- `と聞き伝えている
- `大徳はともかく
- `この毒ある流れを涸らせておしまいにならなかったのか
- `訝しいことを貴殿はどう思われる
- `法師が笑みを含んで言う
- `この歌は風雅集に選び収められています
- `その端詞に
- `高野の東の院へ参る道に
- `玉川という河の水上に毒虫が多かったので
- `この流れを飲んではならない由を示しおいて
- `後に詠みました、と断りを入れておられます
- `貴殿がご存じのとおりです
- `しかし今のお疑いも僻事ではありません
- `大師は神通自在にして
- `隠神を使って道なき道を拓き
- `巌を削るには土をうがつよりも易しく
- `大蛇を慎ませ、怪鳥を奉仕させられたことなど
- `天下の人が仰ぎ奉る功績を思えば
- `この歌の端の詞は正しくありますまい
- `もとよりこの玉河という川は諸国にあって
- `いずれを詠んだ歌も
- `その流れの清きを誉めていることを思えば
- `この玉川も毒ある流れではなく
- `歌の意味も
- `これほど名に負う河がこの山にあるのを
- `ここに詣でる人は忘れながらも
- `流れの清きを愛で手にすくったであろう、と詠まれたのではありますまいか
- `後の人の、毒がある、という僻事から
- `この端詞は作られたものかと思われるのです
- `また深く疑えば
- `この歌の調子は平安京の初め頃の言葉振りでもありません
- `およそこの国の古い言葉では
- `玉蔓・玉簾・珠衣の類は
- `形を誉め清きを誉める言葉なので
- `清水を、玉水・玉の井・玉河、とも誉めるのです
- `毒ある流れにどうして玉という語を冠するでしょうか
- `熱心に仏を尊ぶ人で
- `歌の意味に詳しくない人は
- `この程度の誤りをいくらもするものです
- `貴殿は歌を詠む人でもないのに
- `この歌の意味を怪しまれたのは心遣いあるからです、とたいへん感じ入った
- `貴人をはじめ人々も
- `この道理をしきりに感心された
- `御堂の後の方で、仏法仏法、と鳴く声が近く聞こえるので
- `貴人は杯を挙げられ
- `あの鳥は決して鳴かなかったのに
- `今宵の酒宴に華を添えた
- `紹巴いかに、と仰せになった
- `法師はかしこまって
- `私の短句は君の御耳には古臭くなったでありましょう
- `ここに旅人が夜を過ごしておりますが
- `今の世の俳諧風を詠んでおります
- `君には珍しくございましょうから
- `召してお聞きください、と言う
- `それを召せ、と仰せられると
- `若い侍が夢然に向かってきて
- `お召しだ、近う参れ、と言う
- `夢ともうつつともわからず、恐ろしさのままに御前へ這い出た
- `法師は夢然に向かい
- `先ほど詠んでいた句を君に申し上げよ、と言う
- `夢然は恐る恐る
- `何を申したのか少しも覚えておりません
- `どうぞお許し下さい、と言った
- `法師は重ねて
- `秘密の山、と言わなかったか
- `殿下のお尋ねだ
- `急ぎ申し上げよ、と言う
- `夢然はいよいよ恐れて
- `殿下と仰る方はどなたでいらっしゃるのですか
- `このような深山に夜宴を催されるのですか
- `さらにいぶかしいことでございます、と言う
- `法師は答えて
- `殿下と申し奉るのは
- `関白秀次公でいらっしゃる
- `人々は、木村常陸介
- `雀部淡路
- `白江備後
- `熊谷大膳
- `粟野杢
- `日比野下野
- `山口少雲
- `丸毛不心
- `隆西入道
- `山本主殿
- `山田三十郎
- `不破万作
- `そう言う私は里村紹巴法橋である
- `おまえたちは不思議にもお目見得仕ったのだ
- `先ほどの言葉をすぐに申し上げよ、と言う
- `頭に髪があったら太くなるほどに恐ろしく
- `肝も魂も消えてしまう心地がして
- `震え震え
- `頭陀袋からきれいな紙を取り出して
- `筆もしどろもどろに書きつけて差し出すと
- `主殿が取って高く吟じ上げた
- `鳥の声も秘密の山の茂みかな
- `貴人はお聞きになり
- `巧く詠んだものだな
- `誰かこの末句を詠め、と言われると
- `山田三十郎が座を進み
- `私が仕りましょう、と
- `しばし考えてこう詠んだ
- `芥子を炊き明かす短い夜の床
- `いかがでしょうか、と紹巴に見せる
- `よろしく詠まれました、と御前に出したのをご覧になり
- `片羽にもあらぬわ、と興じられ
- `また杯を挙げて廻らされた
- `淡路という人がにわかに顔色を変えて
- `もう修羅の時では
- `阿修羅どもがお迎えに参上するとのことです
- `お立ち下さい、と言うと
- `一座の人々は忽ち顔に血を注いだようになり
- `いざ、石田・増田の仲間に今夜も泡を吹かせてくれよう、と勇んで立ち騒ぐ
- `秀次は木村に向かわせられ
- `関係ない者に我が姿を見せてしまった
- `その二人も修羅に連れて行け、と仰せになる
- `老臣の人々が遮って声をそろえ
- `未だ命の尽きない者です
- `例の悪業をなさってはなりません、と言う言葉も
- `人の姿も
- `遠く雲井に行くようであった