現代語訳
- `嫉妬深い妻ほど養い難いものはないが
- `老いて後その良さを知る、と
- `いったい誰の言葉なのか
- `その災いは大きくなくとも
- `生業を妨げ物を壊し
- `隣近所の噂になりやすく
- `害がひどくなるに及んでは
- `家を失い国を滅ぼして
- `天下の笑いものになる
- `昔からこの毒に中る人は数知れない
- `死んで蛟となり
- `あるいは霹靂をふるって恨みを晴らすにいたっては
- `その肉を塩辛にしても足りぬが
- `そんな例は稀である
- `夫が己を律して教育すれば
- `こんな悩みは避けられるのに
- `ひと時の浮気心を起こして
- `女の悋気を募らせ
- `自ら憂えを招くのである
- `鳥を制するは気にあり
- `妻を制するは夫の雄々しさにあり、というのは
- `もっともである
- `吉備国賀夜郡庭妹の郷に、井沢庄太夫という男がいた
- `祖父は播磨の赤松氏に仕えていたが
- `去る嘉吉元年の乱の折、その館を去ってここへ落ち着き
- `庄太夫までの三代を経て
- `春に耕し秋に刈り入れ
- `豊かに暮らしていたが
- `息子の正太郎は
- `農業を嫌がるあまり
- `酒に乱れ色欲にふけり
- `父の戒めを聞かないので
- `両親はこれを嘆いて計画し
- `良家の美しい娘でも嫁にさせてやれば
- `素行も自ずから修まるだろうと
- `あちこち国中を探したところ
- `幸いにも仲人があって
- `吉備津の神主・香央造酒の娘は
- `生来優美で
- `父母の言うこともよく聞き
- `歌を詠み、琴も巧い
- `もとよりその家は吉備の鴨別命の系統で
- `由緒も正しいので
- `あなたの家と姻戚になれば末々よいことがありましょう
- `この話がまとまるるのは私の願うところでもあります
- `親御さんのお気持ちはいかがでしょう、と言う
- `庄太夫はおおいに喜び
- `よく仰ってくださいました
- `このことは我が家にとって千年の計となると思うのですが
- `香央といえばこの国の貴族
- `我々は氏もない農夫に過ぎません
- `家柄はとても及ばず
- `肯いてはもらえないでしょう
- `仲人の翁は笑みを浮かべ
- `そう謙遜なさいますな
- `私がうまくとりまとめましょう、と
- `行って香央に説けば
- `先方も喜び
- `妻にも語れば
- `妻も乗り気で
- `我が娘はすでに十七になり
- `いつもよい人がいたら嫁がせようと
- `心落ち着かずにおりました
- `早々によい日を選んで結納を、と
- `強く進めようとするので
- `約束がとりつけられたと井沢に返事をした
- `そして結納の品を揃え
- `日を選んで祝儀の用意を始めた
- `また幸福を神に祈るということで、巫子・祝部を集めてお湯を奉納した
- `そもそも吉備津の社で祈祷する人は
- `多くの供物を供えお湯を奉納し
- `吉凶を占う
- `巫子が祝詞を読み上げ
- `お湯が沸き上がるに及んで
- `吉と出れば釜の鳴る音は牛の吼えるがごとく
- `凶と出れば釜は音を立てない
- `これを吉備津の御釜祓という
- `ところが香央の家については
- `神がお受けにならなかったのか
- `秋の虫が草むらで鳴くほどの音もしなかった
- `これを訝しんだ香央が
- `占いを妻に語ると
- `妻は疑いもせず
- `御釜の音がしなかったのは
- `祝部たちの身が清くなかったからでしょう
- `既に結納は交わされ
- `赤い縄で結ばれて
- `仇の家であろうと
- `異人の土地であろうと変えられないと聞きます
- `特に井沢は弓の道を知る武士の流れです
- `掟のある家ならば
- `いまさらとりやめるなど承知しないでしょう
- `それに婿殿の美貌を耳にして
- `うちの娘も日を数えて待っていますから
- `今よからぬ話を聞こうものなら
- `なにをやらかすかわかりません
- `その時悔やんでも取り返しがつきません、と
- `言葉を尽して諫めるのは
- `まったく女の考えである
- `香央ももとより願っていたことなので深く疑わず
- `妻の言葉に従って婚儀を整え
- `両家の親類縁者が集まり
- `鶴の千歳
- `亀の万世、と歌い祝福した
- `香央の娘・磯良は嫁いだ後
- `朝早く起き、夜遅く床に就き
- `常に義父母のそばを離れず
- `夫の性分を理解し、心を尽くして仕えるので
- `井沢夫妻は孝行貞節を見上げたものだと喜び
- `正太郎もその心を愛でて
- `むつまじく暮らしていた
- `しかし、正太郎の生来の浮気性はどうにもならなかった
- `いつの頃からか、鞆の津の袖という遊女とねんごろになり
- `ついに足抜きし
- `近くの里に別宅を設け
- `長い間家に戻らなかった
- `磯良はこれを怨み
- `義父母の怒りにかこつけて諫め
- `あるいは浮気心を怨み嘆いてみたが
- `うわの空に聞き流し
- `父は磯良の必死なふるまいを見るに忍びず
- `父は磯良の必死な振舞いを見るに忍びず
- `正太郎を叱って家に閉じ込めてしまった
- `磯良はこれを悲しんで
- `朝夕の奉仕もまめやかに
- `また袖に物を送るなどして
- `心の限りを尽くした
- `ある日父が留守の間に
- `正太郎は磯良を丸め込んで言った
- `おまえの健気な操を見て
- `今は自分の罪を悔いるばかりだ
- `あの女を故郷へ帰した後には
- `父上を笑顔にしよう
- `あの女は播磨は印南野の者で
- `親もなく身分も賤しいから
- `哀れんで情けをかけていた
- `おれに捨てられたら
- `また港の遊女になってしまうだろう
- `同じ賤しい奴でも
- `京は人の情もあると聞くから
- `彼女を京へ送り
- `立派な人に仕えさせたいと思う
- `おれはこんな身だから何をするにも先立つものがない
- `路銀や着物代を誰も用立ててはくれない
- `おまえ取り計らって彼女に恵んでやってくれないか、と
- `ねんごろに頼むと
- `磯良はとても感心し
- `その事はご安心ください、と
- `自分の衣服や調度品を金に換え
- `その上実家の母親をも偽って金を借り
- `正太郎に渡した
- `この金を手にするとこっそり家を抜け出し
- `袖という女を連れ、京の方へと逃げて行ってしまった
- `ここまでだまされた磯良は
- `ひたすら恨み嘆き
- `ついに重い病を患って寝込んでしまった
- `井沢と香央の人々は、彼を憎み、磯良を哀れみ
- `医者に診てもらったりしたが
- `粥さえ日に日に受けつけなくなり
- `手の施しようもなく見えた
- `播磨国印南郡荒井の里に
- `彦六という男がいた
- `彼は袖と従弟の間柄なので
- `まずここを訪れ
- `しばらく足を休めた
- `彦六は正太郎に向かい
- `京とはいえ人によっては頼りにならない
- `ここに留まられよ
- `飯を分けあい、ともに生計を立てよう、と言う
- `頼もしい言葉に心落ち着いて
- `ここに住むことにした
- `彦六は自分の住むあばら家を貸して住まわせ
- `友ができた、と喜んだ
- `そんな折、袖が風邪をひいた、と言い出すと
- `なんとなく病みはじめ
- `ものに憑かれたがごとく狂わしげになるので
- `ここへ来て何日も経たないうち
- `こうした不幸を被った悲しみに
- `正太郎は食うことさえ忘れて介抱するのだが
- `ただ声をあげて泣き、胸を詰らせ苦しむ
- `正気が戻れば普段と変わらない
- `これが生霊というものか
- `故郷に捨ててきた女のものか、とひとり苦悩した
- `彦六がこれを諫め
- `どうしてそのようなことがあるものか
- `疫病というものの苦しみをたくさん見てきたが
- `熱が少し下がれば
- `忘れたようになるものだ、と
- `軽く言うので心強かった
- `しかし、看病の甲斐はいささかもなく
- `七日目にとうとう死んでしまった
- `天を仰ぎ
- `地を叩いて泣き悲しみ
- `共に逝くぞと錯乱するのを
- `彦六があれこれ言い慰めて
- `このままにしてはおけないから、と荒野で荼毘に付し
- `骨を拾い塚を築いて卒塔婆を立て
- `僧を迎えてねんごろに弔った
- `正太郎はうつむいて黄泉路の袖を偲んだが
- `死者の霊を呼び戻すすべなどなく
- `天を仰いで故郷を思えば
- `却って冥土より遠くに思われ
- `進むに橋なく退路をも失い
- `一日中臥せっては、夕な夕なに塚へ参れば
- `草が早くも茂り
- `虫の声はそぞろに悲しい
- `この秋はひとりぼっちで侘しい、と思っていると
- `雨雲のどこかにも同じ嘆きがあるらしく
- `並んで新しい塚ができていて
- `そこへ参った女が
- `世にも悲しげな面持ちで
- `花を手向け水をかけているのを見て
- `ああ気の毒に
- `あなたのような若い方がこのような寂しい荒野をさまよっておられるとは、と言うと
- `女は振り返り
- `私が夕な夕なここへ参るたび
- `あなたはいつも先にいらしています
- `忘れ難い方とお別れになったのでしょうね
- `お心をお察しするほどに悲しくなります、とさめざめと泣く
- `正太郎は言う
- `そのとおりです
- `十日ほど前に愛しい妻を亡くし
- `この世に残されて張り合いもなく過ごしているので
- `ここに参るときだけ少し心が晴れるのです
- `あなたもそうなのでしょう
- `女は言う
- `こうしてお参りしているのは
- `仕えておりましたご主人様のお墓で
- `いついつの日ここに葬りました
- `家に残された奥様があまりにも嘆き悲しまれ
- `この頃重い病を患われたので
- `こうして代わりにお参りし
- `線香や花を供えているのです、と言った
- `正太郎は言う
- `奥様がご病気になるのももっともです
- `ところで亡くなったご主人とはどんな方で
- `どちらにお住まいなのでしょうか
- `女は言う
- `お仕えしていたご主人様は
- `この国では由緒あるお方でしたが
- `ある者の讒言により領地を失い
- `この野原の隅に侘しくお住まいでした
- `奥様は隣国まで噂になるほどの美しい方ですが
- `この方がもとで家や領地を失ってしまったのです、と語った
- `この話を聞いてすっかり心惹かれた正太郎は
- `その方が寂しくお住まいになっている家は
- `近くなのでしょうか
- `お訪ねして
- `同じ悲しみを語り慰め合いたいので
- `連れて行ってください、と言った
- `家はあなた様のいらした道を少し入った所です
- `訪ねる人もありませんので時折お越しください
- `待ち侘びていらっしゃるでしょう、と言って女は先に立って歩き始めた
- `二町あまり歩くと細い道があった
- `そこからさらに一町ほど進むと
- `薄暗い林の奥に小さな草葺の家があった
- `古びた竹の扉に
- `七日あまりの月が明るく射し込み
- `狭い庭の荒れた様子がわかる
- `仄かな灯火の光が障子からこぼれて物寂しい
- `ここでお待ちください、と言うと中へ入っていった
- `苔むした古井戸のそばに立って見ると
- `唐紙の少し開いた隙間から
- `揺れた火影に
- `黒棚がきらめいて趣深かった
- `女が出てきて
- `お訪ねの旨をお伝えしましたら
- `お入りください
- `衝立越しにお話しましょう、と奥の部屋へ行かれましたので
- `そちらにお入りくださいと
- `植え込みを廻って奥の方へと案内した
- `二間の客間を人幅ほど開ければ
- `低い屏風が立ち
- `古い衾の端が覗いており、女主がそこにいると知れた
- `正太郎はそちらに向かい
- `ご病気であると伺いましたが
- `私も愛しい妻を亡くし
- `同じ悲しみを慰め合えればと思い
- `推して参りました、と言った
- `すると女主は屏風を少し引き開け
- `これは珍しいところでお会いしましたね
- `辛かったときの報いを思い知らせてあげましょう、と言うので
- `驚いて見れば
- `故郷に残した磯良であった
- `顔の色はひどく蒼ざめ
- `だるい目つきはすさまじく
- `自分を指した手の青くほっそりとした恐ろしさに
- `うわっ、と叫んで気を失ってしまった
- `しばらくして正太郎は目を覚まし
- `目を細く開いて見れば
- `家と思っていたのは古びた荒野の三昧堂で
- `黒い仏像だけが立っていた
- `里の遠くの犬の声を頼りに
- `家へ走って帰り
- `彦六にしかじか話をすれば
- `なに狐にたぶらかされたんだろう
- `怖気づいている時ほど迷わし神が襲ってくるものだ
- `そなたのように弱い者が落ち込み悩んでいるときは
- `神仏に祈って気持ちを落ち着けることだ
- `刀田の里に尊い陰陽師がおいでだから
- `身を清め魔除けの札をいただくといい、と
- `誘って陰陽師の元へ行き
- `いきさつを詳しく語って占いをお願いした
- `陰陽師は占い考えて
- `災いはすでに間近に迫っていて容易には片づかない
- `先に女の命を奪っても
- `恨みはなお尽きぬ
- `そなたの命さえ朝か夕かに迫っている
- `この鬼が世を去ったのは七日前だから
- `よって今日から四十二日の間は戸を閉ざして固く物忌みなされよ
- `我が戒めを守るなら九死に一生を得るが
- `一時でも油断すれば免れられぬぞ、と
- `きつく教えて筆をとり
- `正太郎の背から手足に及ぶまで
- `篆書のような字を書き
- `さらに朱色で書いた護符をたくさん紙に記して与え
- `この符を戸ごとに貼って神仏に念じよ
- `へまをして身を滅ぼしてはならぬぞ、と教えると
- `恐れながらも喜んで家に帰り
- `朱の護符を門や窓に貼って
- `慎んで物忌みを始めた
- `ほどなく夜が明けたので気を取り直し
- `急いで彦六のいる壁を叩いて昨夜の出来事を語った
- `彦六もはじめて陰陽師の言葉の不思議だと思い
- `自分もその夜は寝ずに三更の時を待った
- `松を鳴らす風は物を倒すがごとく
- `雨まで降ってきて、常とは違う夜の様子に
- `壁を隔てて声を掛け合ううち
- `はや四更になった
- `下人用の家にさっと赤い光が射して
- `ああ憎い
- `こんなところにも尊い護符を貼るなんて、という声が
- `深い夜にすさまじく響く
- `髪も産毛もみな逆立って
- `しばらくは気を失っていた
- `そうこうするうち四十二日目の夜になった
- `残すはあと一夜となり
- `特に慎めば、五更の空も白々と明けてきた
- `長い夢から覚めたように
- `彦六を呼ぶと
- `壁に寄って、どうした、と答える
- `固い物忌みもついに終わる
- `しばらく兄上の顔を見ていないので
- `懐かしくなってしまった
- `長かったこの日々の憂さを思いっきり語りたい
- `目を覚ましてください、私も外に出ますから、と言う
- `彦六は不用意な男なので
- `もう大丈夫だろう
- `それではこっちへ、と
- `戸を半分開けたか開けぬかの間に
- `隣の家から、うわあっ、という叫び声が耳を貫き
- `思わず尻もちをついてしまった
- `これは正太郎の身に何かあったな、と
- `斧を引っ提げて道へ出ると
- `明けたと言っていた夜はいまなお暗く
- `月は中空でおぼろに翳り、風は冷ややかで
- `正太郎の家の戸は開けっ放しで本人がいない
- `奥へでも逃げ込んだかと駆け込んでみたが
- `どこにも隠れるようのない家なので
- `道に倒れているのかと探してみても
- `あたりには物ひとつない
- `どうなったのか、と
- `怪しみ、あるいは恐る恐る
- `灯火を掲げてそこかしこを見回ると
- `開けた戸の脇の壁に
- `生々しい血がしたたり、地に伝っていた
- `にもかかわらず屍も骨も見当たらない
- `月明かりに見れば
- `野の端に何かある
- `灯火を捧げて照らして見ると
- `男の髻だけが残り
- `他にはまったく何もなかった
- `その恐ろしさは筆舌に尽くしがたい
- `夜が明けてからあたりの野山を探したが
- `ついにその跡さえ見つからなかった