現代語訳
- `年は変わって二月になった
- `この石榴市というのは
- `長谷寺の近い土地である
- `仏の中でも長谷寺のあらたかなことは
- `唐土にまで知れ渡っているということで
- `都・田舎を問わず詣でる人が
- `春は特に多かった
- `詣でる人が必ずここに宿をとるので
- `旅籠が軒を並べて旅人を泊めていた
- `田辺の家は神仏に備える灯火や灯芯の類を商っていたので
- `所狭しと人が入ってくる中に
- `都人のお忍び詣と思しき
- `実に美しい女が一人、従女を連れて
- `薫物を買いに立ち寄った
- `その侍女が豊雄を見て
- `ご主人様がここにいますよ、と言うので
- `驚いて見れば
- `あの真女子とまろやであった
- `ああ恐ろしい、と店の中に隠れた
- `金忠夫婦が、何事か、と言うと
- `あの鬼がここまで追ってきました
- `あの女らには近づいてはなりません、隠れ怯えている
- `人々は、どこだどこだ、と騒ぐ
- `そこに真女子が入って来て
- `みなさん、怪しまないでください
- `あなた、怖がらないでください
- `私のせいで罪を被せてしまったことの悲しさに
- `所在を求めて
- `弁解をして、安心していただかなければと
- `あなたのお住まいを尋ね歩いてまいりましたが
- `その甲斐あってお目にかかれ嬉しく思っています
- `あなた、どうかご理解ください
- `私がもしも怪しい者ならば
- `これほど大勢の人が往来し
- `これほどのどかな昼にどうして現れましょう
- `衣には縫い目もありますし、日に向かえば影もできます
- `この道理をご理解になり
- `お疑いを解いてください
- `豊雄はようやく人心地ついて
- `おまえは本当は人ではないだろう
- `私が捕らわれて、武士らと共に行ってみれば
- `前日とは似ても似つかぬほどすさまじく荒れ果てた
- `まさに鬼の住むような屋敷に一人いたではないか
- `みんなが捕えようとしたら
- `たちまち青天の霹靂を起こして
- `跡形もなく消えたのを私は目の当たりにしたのだ
- `また追ってきて何をするつもりだ
- `とっとと出て行け、と言った
- `すると真女子は涙を流し
- `たしかにそう思われるのは無理もありませんが
- `私の言葉も少しお聞きください
- `あなたが国衙に連れて行かれたと聞いて
- `かねてより世話をしていた隣の翁にわけを話し
- `急いで荒れ野のように屋敷をこしらえたのです
- `私を捕えるときに雷鳴を轟かせたのはまろやが仕掛けを鳴らしたものなのです
- `その後、船を求めて難波の方へ逃れましたが
- `あなたの消息を知りたくて
- `ここの御仏に願をかけに参ったところ
- `二本杉の印があり
- `嬉くも流れ逢うことができたのは
- `ひとえに御仏のお慈悲で御徳を授かったおかげです
- `数々の神宝などどうして女が盗み出すことができましょう
- `あれは前の夫の仕業だったのです
- `そのことをよくご理解ください
- `そして私の心を露ほどでもお汲みください、とさめざめと泣いた
- `豊雄は
- `半ば疑いつつも半ば憐れみ
- `次の言葉が出てこなかった
- `金忠夫婦は、真女子の事情が明らかになり
- `この女らしいふるまいを見て
- `まったく疑う心もなく
- `豊雄の話を聞いて世にも恐ろしいことのように思ったが
- `そうした例のある世でもあるまいに
- `はるばると迷い訪ねてくる心根もいじらしい
- `豊雄が首を縦に振らなくても我々が泊めてあげよう、と
- `家の一室へと迎え入れた
- `そこで一日二日と過ごすうち
- `金忠夫婦の気を引くために
- `真女子はひたすら嘆き頼んだ
- `その心の深さにほだされ
- `豊雄を促してついに結婚の儀を取り結んだ
- `豊雄も日を追うごとに心も解け
- `もとより美貌を愛で悦び
- `千年の愛を契れば
- `葛城や高間の山に夜毎に湧き立つ雲も
- `長谷寺の暁の鐘に雨も上がって
- `再会の遅れたことをただ恨めしく思った
- `三月になった
- `金忠は豊雄夫婦に向かい
- `都あたりとは比べるべくもないが
- `それでも紀伊路よりは美しいだろう
- `名も麗しい吉野の春はとてもよい所だ
- `三船の山も
- `菜摘川もいつまで見ても飽きない
- `今頃はどれほど美しいことだろう
- `さあ出かけよう、と言う
- `真女子が微笑み
- `よき人のよし、と歌に詠まれる所は
- `都の人も見ないのを悔いると聞くほどですが
- `私は幼い頃から
- `人の多い所や
- `長い道のりを歩くと
- `のぼせる持病があるので
- `ご一緒できないのがとても残念です
- `山の土産を楽しみにお待ちしております、言うのを
- `それは歩くと持病で苦しいだろう
- `車こそないが
- `決して決して土は踏ませることはない
- `留守をさせては豊雄もどれほどがっかりするだろう、と
- `金忠夫婦が勧めると
- `豊雄も、これほど勧められているんだから
- `たとえ道に倒れても行かないわけにはいくまい、と言うので
- `しぶしぶ出かけることにした
- `人々は着飾っていたが
- `真女子の麗しさには似ても似つかぬように見えた
- `何某の僧院はかねてからよく知っていたのでそこを訪ねた
- `住職が出迎え
- `この春はいつもより遅いお詣でしたな
- `花は半ば散ってうぐいすの声も張りをなくしつつありますが
- `もっとよい所へお連れしましょう、と
- `精進料理の夕食をふるまった
- `明けゆく空は深くかすんでいたが
- `晴れゆくままに辺りを見渡せば
- `その院は高い所なので
- `そこかしこにの僧坊がはっきりと見下ろせた
- `山の鳥たちもそこはかとなくさえずりあい
- `草木の花々が咲き乱れていた
- `同じ山里ながら目の覚める心地にさせられる
- `初めての参詣なら滝のある方が見所が多いからと、
- `そちらへ案内人を呼んで行くことにした
- `谷を巡って下りていく
- `昔、行幸の宮があった所は
- `石走る滝の瀬が激しく流れ
- `小さな鮎が遡上するなど
- `見飽きないので
- `昼食をとりつつ行楽を満喫した
- `すると、岩伝いにやって来る人がいる
- `髪は麻紐を束ねたようであるが
- `足腰のとてもしっかりした老人であった
- `この滝の下まで来て
- `彼らを疑わしげに見据えると
- `真女子もまろやもその人を背にして見ぬふりをした
- `老人は二人をじっと見つめ
- `怪しい
- `あの邪神め、なぜ人を惑わすのか
- `わしの目の前でもそのようなことをするか、とつぶやくのを聞いて
- `二人はたちまち躍り上がって滝へ飛び込もうとすると
- `水が大空に吹き上がって見えなくなり
- `雲が摺る墨をこぼしたようになって
- `篠突く雨が降りだした
- `老人は慌てふためく人々を落ち着かせ、人里へと下った
- `あばら家でしゃがみこみ、生きた心地もせずにいると
- `老人は豊雄に向かい
- `よくよくそなたの顔を見れば
- `あの隠れ神に悩まされているようですな
- `わしが救わねば命を失っていたかもしれぬ
- `後はしっかり慎みなされ、と言った
- `豊雄は地面に額をこすりつけ
- `いきさつを初めから語り出し
- `なんとかお助け下さい、と
- `恐れ敬いながら懇願した
- `老人は、やはり
- `あの邪神は年老いた大蛇である
- `その性は淫らで
- `牛とまぐわっては麒麟を生み
- `馬とまぐわっては龍馬を生むという
- `あれが魅入ったのは
- `そなたが男前だから惚れて色を仕掛けてきたからだろう
- `ここまで執念深くては、よくよく用心せねば
- `そなたの命はなくなってしまうと言うので
- `金忠夫婦らもいよいよ恐ろしくなり
- `老人を崇め、遠津神に相違ないと拝んだ
- `すると老人は笑い
- `わしは神様ではない
- `大和神社に使える当麻の酒人という爺だ
- `帰り道を送ってさしあげよう
- `では、参ろうと歩き出したので
- `皆後について帰っていった
- `翌日大和の郷へ行き
- `翁の助けに感謝し
- `美濃絹三疋と
- `筑紫綿二屯をお礼に渡して
- `これからもどうか妖怪が退散するよう禊をしてくださいとかしこまってお願いした
- `老人はこれらを納めて
- `神官らに分け与え
- `自らは一疋一屯手にすることはなかった
- `そして豊雄に向かい
- `あれはそなたが男前ゆえに色仕掛けでそなたにまとわりついている
- `そなたは二度あれの仮の姿に惑わされた弱い心の持ち主である
- `これから男気をもって平常心を保てるならば
- `あの邪神を追い払うのに私の力を必要とはしまい
- `しっかり心を落ち着けなされよ、とこまごま言って聞かせた
- `豊雄は夢から覚めた心地になり
- `何度も礼を述べて帰ってきた
- `金忠に向かい
- `この年月、あれに魅入られたのは私の心が正しくなかったからです
- `両親や兄に孝行もせず
- `あなたの家に厄介になっているのはよいことではありません
- `気にかけてくださるのはありがたいのですが
- `また出立しようと思います、と
- `紀伊国へと帰っていった
- `両親と兄夫婦は
- `その恐ろしい出来事を聞いて
- `いよいよ豊雄の過ちでなかったことを憐れみ
- `また妖怪の執念深さを恐れ
- `これは独身でいたために起こったことのだと
- `妻を迎えさせる支度を始めた
- `芝の里に芝の庄司という者がいた
- `娘が一人おり
- `朝廷に釆女として仕えさせていたが
- `暇乞いの許しが下りたので
- `豊雄を婿にさせようと
- `仲人を立てて大宅のところに申し込んできたので
- `よい具合に進んで
- `すぐに婚約と相成った
- `そして都へも迎えの人を出すと
- `釆女の富子は喜んで帰ってきた
- `長年の宮廷仕えに慣れていて
- `あらゆる作法もわきまえ
- `容姿なども麗しかった
- `豊雄は迎えられてきた彼女を見て
- `富子の美貌と欠点のなさに
- `あの蛇に惚れられていたこともちらほら思い出していた
- `初夜は何事もなかったので書かない
- `二日目の夜
- `いい具合の酔い心地で
- `長年の宮廷住まいでは
- `田舎の人はうっとうしいでしょう
- `宮中では
- `なんとかの中将や宰相の君などという人と添い寝なさったんでしょうね
- `いまさらですがやきもちを妬いてしまいます、などと戯れ言を言っていると
- `富子がさっと顔を上げ
- `昔の約束をお忘れになり
- `このような取柄もない女に入れ込まれるなんて
- `私よりもよっぽど憎らしい、と言ったのは
- `姿こそ変われど
- `まさしく真女子の声であった
- `聞けばあさましく
- `身の毛もよだつほどに恐ろしく
- `ただうろたえるのを
- `女は微笑んで
- `あなた、怪しまないでください
- `海に誓い山に誓ったことをすぐにお忘れになっても
- `縁があればこうして再会できるのですから
- `他人の言葉をを真に受けて
- `無理に遠ざけようとすれば
- `恨みの報いを受けますよ
- `紀伊路の山々はこんなに高くても
- `あなたの血を峰から谷へと注ぎ込んであげましょう
- `せっかく無事でいられるのに、いたずらに死ぬことになりますよ、と言うので
- `豊雄はひたすら震えて
- `今にも命を奪われる心地で気を失いそうになった
- `屏風の後ろから
- `ご主人様、どうしてご機嫌を損ねるのですか
- `こんなにおめでたい契りの時だというのに、と現れたのはまろやであった
- `それを見てまた肝を潰し
- `目をつぶって突っ伏してしまった
- `和ませたり脅したりしつつ
- `代わる代わる声をかけたが
- `ついに意識をとり戻さず夜が明けた
- `そして寝室から逃れ出て、庄司に向かい
- `しかじかの恐ろしいことになりました
- `どうやって逃げたらいいでしょうか
- `知恵をお貸しください、と言う間も
- `背後で聞いてはいないか気にしながら小声で話した
- `庄司も妻も顔を青くして嘆きうろたえ
- `どうしたらよいものか
- `そういえば都の鞍馬寺の僧で
- `毎年熊野に詣でる方が
- `昨日からこの向かいの山の僧院に泊まっておられる
- `霊験あらたかな法師で
- `およそ疫病
- `物の怪
- `蟲なども封じてくださるので
- `この郷の人々は貴んでいる
- `この法師をお招きしよう、と
- `あわただしく招くと
- `しばらくしてやって来た
- `その話をすると
- `法師は鼻を高くして
- `そんな蠱物らを捕えるなど造作もない
- `安心なさるがよい、と言うので
- `人々はほっとした
- `法師はまず雄黄を探し求めると薬のように調合し
- `小瓶に注いでその寝室に向かった
- `みんなが恐れ隠れていると
- `法師は嘲笑い
- `年のいった坊ちゃんもそこにおられよ
- `この蛇をすぐ捕えてご覧に入れよう、と中に入った
- `寝室の戸が開くのをいまや遅しと
- `その蛇は頭を差し出して法師に向かっていった
- `こんな頭がなにほどのものだ
- `大蛇は戸口を塞ぐように
- `雪が積もるよりも白く輝き
- `眼は鏡のごとく
- `角は枯れ木のごとく
- `三尺余りの口を開き
- `紅の舌を吐き
- `まさにひと呑みにしようという勢いでいた
- `わあっ、と叫び
- `手にした小瓶を放り捨て
- `立つこともできず、転び這い倒れて
- `かろうじて逃げてきた
- `そして人々に向かい
- `ああ恐ろしい
- `祟っておられる神様でいらっしゃるのに
- `どうして法師が調伏などできましょう
- `この逃げる手足がなかったら
- `今頃命などありませんでした、と言いつつ気を失ってしまった
- `みんなが助け起したが
- `顔も肌も黒く赤く染めたようになり
- `火で手をあぶったように熱くなっていた
- `毒気に当たったと見えて
- `後はただ眼ばかりが動いてなにか言いたげであったが
- `もはや声も出ずなかった
- `水を与えたりしてみたが、ついに死んでしまった
- `この光景を見た人々はいよいよ身も心も失われたような思いになって泣き惑う
- `豊雄は少し心を静め
- `これほど霊験あらたかな法師ですら手に負えません
- `執念深く私につきまとうのでは
- `この世にいる限りは探されて見つかってしまうでしょう
- `自分の命ひとつのために他の人々を苦しめるのはよいことではありません
- `もはや人の手助けはいただきません
- `安心してください、と寝室へ向かうのを
- `庄司家の人々が、気は確かか、と引き止めたが
- `耳を貸さずに入っていった
- `戸を静かに開けると静かな中で
- `二人きり向かい合った
- `富子は豊雄に向かい
- `あなたは何の恨みがあって私を捕えようと他人に話すのですか
- `この後も敵意をもってお続けになるのなら
- `あなたのみならず
- `この郷の者らもことごとく悲惨な目に遭わせてあげましょう
- `ただひたすらわたしの操立てを愛してください
- `どうか不実な
- `お心は持たないでください、と
- `深く愛おしむように語った
- `豊雄は
- `世のことわざにもある
- `人に必ずしも虎を害するは心なくても
- `虎は逆に人を襲う心があるかもしれない、と言うではないか
- `おまえは人の心を持っていない
- `私にまとわりついては幾度かひどい目に遭わせることもあったのに
- `私のかりそめの言葉ひとつで、これほど恐ろしい報いを受けるというのは
- `ひどく不愉快だ
- `けれども、私を慕ってくれるその心は世の人間と変わらないから
- `ここにいて、周囲の人たちが嘆くのを見るのはつらい
- `富子の命はひとつ助けてやってくれ
- `そしたら私はお前とともにどこへでも行こう、と言うと
- `とても嬉しそうにうなずいた
- `再び部屋を出て庄司に向かい
- `このような魔物と寄り添ったまま
- `ここにいて皆さんを苦しめるのはとてもつらいことです
- `私はこれでお暇いたします
- `お嬢さんの命は心配ありません、というのを
- `庄司は承知しなかった
- `弓の道をも心得ながら
- `こんなに甲斐性がなくては大宅の方々に面目が立たない
- `もう少し策を練ろう
- `小松原の道成寺に法海和尚という貴い祈りを捧げる法師がいらっしゃる
- `今は老いて部屋の外にも出ないと聞くが
- `私のためなら決してお見捨てにはなるまい、と
- `馬に乗って急ぎ発っていった
- `遥かな道のりであったため、夜中に僧院に到着した
- `老和尚は寝室からおぼつかない動きで現われ
- `一部始終を聞くと
- `それは恐ろしかったであろう
- `今は老い朽ちて霊験があるかはわからないが
- `そなたの家の災いとあっては黙っておられぬ
- `まずはお戻りなされ
- `私も追って参る、と
- `芥子の香の染みた袈裟を取り出して
- `庄司に与え
- `魔物を首尾よくすかし寄せ
- `これを頭から被せて
- `力いっぱい押さえつけなされ
- `弱くては逃げられてしまう
- `よくよく念じて仕れ、とこまごま教えた
- `庄司は喜びつつ馬を飛ばして帰っていった
- `豊雄をこっそり呼んで
- `いま言ったことをぬからずに仕れ、と袈裟を与えた
- `豊雄はそれを懐中に忍ばせて寝室へ行き
- `庄司殿が暇をくださった
- `では出かけよう、と言った
- `とても嬉しそうにしているので
- `袈裟をとり出してすばやく被せ
- `力の限りに押さえつけた
- `ああ苦しい
- `あなたはどうしてそんなひどいことをするの
- `はやくこれをどけてください、と言ったが
- `なお力任せに押さえつけた
- `法海和尚の輿が到着した
- `庄司の家の者らの手を借りて寝室に来ると
- `そして口の中でぶつぶつと念仏を唱えながら
- `豊雄を退けて
- `その袈裟を外すと
- `富子が気を失って倒れている上に
- `三尺ほどの白蛇が身じろぎひとつせずにわだかまっていた
- `老和尚はそれを捕らえて
- `弟子の僧が持つ鉄の鉢に納め
- `更に念じると
- `屏風の背後から
- `一尺ばかりの小蛇が這い出てきたので
- `捕らえて鉢に納め
- `その袈裟でしっかり封じ
- `そのまま輿へとお乗せになると
- `人々は手を合わせ
- `涙を流しながら彼を敬った