現代語訳
- `昔、快庵禅師という徳の高い聖がいらした
- `若い頃から禅の本旨を理解し
- `常に諸国を行脚しておられた
- `美濃国の竜泰寺で一夏を過ごし
- `この秋には奥羽の方に住もうと
- `旅立たれた
- `行き行きて下野国にお入りになった
- `富田という里で日が落ちたので
- `大きく裕福そうな屋敷に立ち寄り一宿を求めようとすると
- `田畑より戻る男たちが
- `黄昏にこの僧の立っているのを見て
- `ひどく怯えた様子で
- `山の鬼が来たぞ
- `みんな出て来い、とわめいた
- `家の中も騒がしくなり
- `女子供らは泣き叫び転びつつ家の隅々に隠れて小さくなった
- `主が棍棒をつかんで走り出し
- `外を見れば
- `年の頃五十歳ほどの老僧が
- `頭に紺染めの頭巾を被り
- `身に破れた黒衣をまとい
- `包み物を背に負い
- `杖で招きながら
- `旦那様、なぜそれほど用心なさるのですか
- `諸国遍参の僧で、今夜一宿をお借りしたく
- `ここに人を待っていただけですので
- `それほど奇異に思われるとは
- `こんな痩せ法師が強盗などするでなし
- `どうぞ怪しまないでください、と言った
- `主は棍棒を捨て手を打って笑い
- `連中の目が節穴でしたので、御僧を驚かせてしまいました
- `一宿おもてなしし罪滅ぼしいたしましょう、と
- `非礼を詫びて奥の方へ迎え
- `快く夕食も勧めてもてなした
- `主はこんな話をはじめた
- `先ほど連中が御僧を見て
- `鬼が来た、と恐れたのには理由があるのです
- `これから不思議な話をしましょう
- `妖しい話ですが他の人にもお伝えください
- `実は、この里の上の山に一軒の寺があります
- `昔は小山氏の菩提寺で
- `代々徳の高いお坊様が住んでおられました
- `今の阿闍梨はある何某という偉い人の養子で
- `特に学問修行の評判が高く
- `この国の人たちは香や蝋燭を納め帰依しておりました
- `我が屋敷にもしばしば参られ
- `打ち解けていたのですが
- `去年の春のこと
- `越の国へ灌頂の戒師に迎えられて
- `百日ほど留まっておられましたが
- `その国より十二・三歳の童子を連れて戻られ
- `寝起きの世話などさせていたのですが
- `童子の美貌を深く愛するうちに
- `日々の勤めがおろそかになっていきました
- `そして今年の四月頃
- `その童子が病に臥せり
- `日々重くなっていくのをひどく悲しまれて
- `国府から名医を呼ばれたりしたのですが
- `その甲斐もなくついに死んでしまいました
- `懐の宝を奪われ
- `髪に挿した花を嵐に飛ばされた思いに
- `涙も枯れて叫ぶ声も出ないほど
- `ひどく嘆かれたまま
- `荼毘に付そうとも土に埋めようともせず
- `顔に顔を押しつけ
- `手に手をとって日々を過ごされるうち
- `ついに精神を病み
- `生きていた頃と同じようにまぐわいを重ね
- `肉が腐りただれるのを惜しんでは
- `肉をすすり骨を舐めて
- `ついには食い尽くしてしまったのです
- `寺中の人々が
- `住職は鬼になられた、と
- `あわてて逃げ去ってしまった後には
- `夜な夜な里に下りて人を驚かせ
- `墓をあばいてはまだ生々しい屍を喰らうというありさま
- `実に鬼というのは昔話に聞きはすれども
- `現実となったものを見てしまいました
- `しかしどうしたらこれを制することができましょう
- `ただ暮れになると家々の戸を閉ざすのみ
- `この頃は国中に知れ渡り
- `人の往来さえなくなってしまいました
- `そういう事情があって
- `御僧を見誤ってしまったのです、と語った
- `快庵はこの話を聞かれ
- `世には奇妙なこともあるものです
- `およそ人に生まれ
- `仏菩薩の教えの広大なことも知らず
- `愚かなまま
- `卑屈なままにこの世を終わる者は
- `その愛欲邪念の業に引きずられ
- `前世の姿となって憤怒を報い
- `あるいは鬼となり蛟となって祟りをなすという例は
- `昔から今に至るまで枚挙に暇がありません
- `また人は生きながらにして鬼と化す者もあります
- `楚王に寵愛された女官は蛇となり
- `王含の母は夜叉となり
- `呉生の妻は蛾となりました
- `また、昔ある僧が賤しい家で一夜を過ごしたときのこと
- `その夜は風雨激しく
- `灯火さえないわびしさに寝つかれずにいると
- `夜更けに羊の鳴き声が聞こえ
- `しばらくして僧の寝息を確かめしきりに匂いを嗅ぐものがありました
- `僧が怪しみ
- `枕元に置いた禅杖で強く打つと
- `大声で叫んでそこに倒れたのです
- `この音に家主の老女が灯をかざして
- `見れば若い女が倒れており
- `老女が泣きながら命を乞うたのです
- `その後
- `うち捨ててその家を出たのですが
- `後に用あって再びその里を通ると
- `田の中に人が大勢集まって何かを見ていました
- `僧も立ち寄り、何事か、と尋ねてみれば
- `里人は
- `鬼と化した女を捕らえて
- `今土に埋めたところです、と語ったと言います
- `しかしこれらはすべて女で
- `男が鬼になったという話は聞きません
- `およそ女の性根のひねくれたのが
- `そうしたあさましい鬼とも化すのです
- `また男でも隋の煬帝の臣下の麻叔謀という者が
- `子供の肉を好み
- `ひそかに民の子供を盗み
- `これを蒸して喰ったこともあるようですが
- `これらはみなあさましく野蛮な心の持ち主で
- `ご主人の語られたこととは違います
- `それにしてもその僧が
- `鬼になったのは過去の因縁でしょう
- `そもそも日頃の修行で功徳を積むことのありがたさというのは
- `仏に仕える事に真心を尽すことですから
- `その童子を養うことがなければ
- `きっと良い法師となったはずなのに
- `ひとたび愛欲の迷路に入って
- `邪念の業火燃え盛る激しさから鬼と化したのも
- `ひとえに実直な性がもたらしたものでしょう
- `心を野放しにすれば妖魔となり
- `律すれば仏果を得る、とは
- `まさにこの法師のことです
- `私がもしこの鬼を善に導き
- `元の心へと戻すことができたなら
- `今夜もてなしていただいたお返しなるでしょう、と
- `尊い志を起こされた
- `主は頭を畳にこすりつけ
- `御僧がそれを成し遂げられたならば
- `この国の人は浄土に生まれ変わったようでしょう、と
- `涙を流して喜んだ
- `山里は法螺貝も鐘も聞こえず
- `二十日余りの月も出て
- `古戸の間から光が洩れ
- `夜の更けたのに気づいたので
- `ではおやすみなさい、と
- `主も寝室へ行った
- `山寺は人の留まることがなかったために
- `楼門は荊棘に覆われ
- `経蔵もむなしく苔生していた
- `蜘蛛が巣を張って仏像をつなぎ
- `燕の子の糞が護摩壇の床を埋め
- `住職の部屋から廊下・僧房に至るまですさまじく荒れ果てていた
- `日が西に傾く頃
- `快庵禅師は寺に入り錫を鳴らされ
- `編参の僧ですが、今夜一泊宿をお貸しください、と
- `何度も叫んだがさっぱり返事がない
- `寝室から痩せこけた僧が弱々しく出てきて
- `しわがれ声で
- `御僧はどこへ向かうのにここへ来たのか
- `この寺はわけあってこのように荒れ果て
- `人も住まぬ野良となってしまったので
- `一粒の食糧さえなく
- `急いで里へ出られよ、と言う
- `速やかに里へ出られよ、と言う
- `禅師は言う
- `私は美濃国を出て
- `みちのくへと向かう旅の途中ですが
- `この麓の里を通った折
- `山の景色や水の流れの美しさに
- `思わずここへ参ったのです
- `日も暮れてしまい、里に下るにも遠いので
- `どうぞ一夜の宿をお貸しください
- `主の僧は言う
- `こんな野良のようなところは、よからぬことが起こるやもしれぬ
- `強いて留めることもできず
- `強いて去れとも言えぬ
- `御僧の心にお任せいたす、と言うとなにも言わなくなった
- `こちらからも一言も問わず
- `主のそばに座った
- `夜が更けると月夜になった
- `月影は冴え冴えとして辺りは隈もない
- `子の刻と思しき頃
- `主の僧が寝室を出て
- `あわただしくなにかを探している
- `見つけられずに大声で
- `糞坊主め、どこに隠れた
- `このあたりにいたのに、と
- `禅師の前を何度も走り過ぎるのだが、まったく禅師に気づかない
- `堂の方へ駆けていくかと思えば
- `庭を廻って躍り狂い
- `ついには疲れ臥して起き上がらなかった
- `夜が明けて朝日が差すと
- `酔いから醒めたように
- `禅師が元の場所にいるのを見て
- `ただあきれた様子で何も言わず
- `柱にもたれ溜息をついて黙りこくっていた
- `禅師が近く進み寄り
- `住職、何を嘆いておられるのですか
- `もし飢えておられるなら拙僧の肉を腹に収めてくだされ
- `主の僧は言う
- `御僧は一晩中そこにいらしたのですか
- `禅師は言う
- `ここで眠らずにおりました
- `主の僧は言う
- `私は浅ましくも人の肉を好みますが
- `いまだ僧侶の肉の味を知りません
- `御僧は真の仏です
- `鬼畜の暗い眼でもって
- `生き仏の来迎を見ようとしたところで目に映らないのは道理です
- `なんと尊いことか、と頭を垂れて口をつぐんだ
- `禅師は言う
- `里人から話を聞けば
- `あなたが一時の愛欲に精神を病み
- `たちまち鬼畜の罪に堕ちたのは
- `あさましくとも哀しくとも
- `前例すら稀な悪い因縁です
- `夜な夜な里に出て人を害するゆえに
- `付近の里人は心穏やかでいられません
- `私はこれを聞き流すに忍びなく
- `あえて来て仏道へ導き
- `元の心に取り戻させようと思っていますが
- `あなたは私の教えを聞きますか断りますか
- `主の僧は言う
- `御僧は真の仏です
- `かくもあさましい悪業をすぐ忘れるすべをお教えください
- `禅師は言う
- `あなたに聞く気があるならばここに来てください、と
- `簀子の前の平らな石の上に座らせ
- `自分の被っていた紺染めの頭巾を外して主の僧の頭に被せ
- `証道の歌の二句を授けた
- ``月は川面を照らし、風は松に吹く
- ``長い夜・清々しい宵は何の為にあるのか
- `あなたはこの場を去ることなく、静かにこの句の意味をお考えください
- `意味がわかったとき
- `自ずから本来の仏心に出会うでしょう、と
- `ねんごろに教えて山を下られた
- `その後、里人は重い苦悩から逃れることができたが
- `僧の生死は分からなかったので、疑い恐れて
- `人々は山へ上ることを禁じた
- `主は喜んで迎え
- `御僧の大徳により
- `鬼は再び山を下ることなく
- `人々はみな浄土に生まれたようです
- `しかし、山へ行くことは
- `恐ろしがって一人として上る者はありません
- `ですからその後の消息はわかりませんが
- `今まで生きているとは思えません
- `今夜お泊りの際に
- `あの僧の菩提をお弔ください
- `皆の衆も回向いたします、と言った
- `禅師は言う
- `彼が善き果報にもとづいて成仏したのなら、仏道の先達の師と言えるでしょう
- `また生きているのなら私の一人の弟子でもあります
- `いずれにせよ消息を確かめねばなりますまい、と
- `再び山に登られると
- `いかにも人の行き来が途絶えていたと見え
- `去年踏み分け歩いた道とは思えぬほどで
- `寺に入って見れば
- `荻や薄が身の丈よりも高く生い茂り
- `露は時雨のように降りこぼれ
- `井戸・門・便所へ行く三つの道さえ消えかけた中
- `各御堂の戸は左右に倒れ
- `住職の部屋や庫裏に続く廊下も
- `朽ち目が雨を含んで苔生していた
- `そしてあの僧を座らせた簀子の辺りを見てみれば
- `影のような人が
- `僧か俗人かも判別できぬほど髭も髪も乱し
- `雑草が絡まり
- `薄が押し合いなびく中で
- `蚊が鳴くようにか細い声で
- `言葉も判別できぬ声で時折唱えるのを聞けば
- ``月は川面を照らし、風は松に吹く
- ``長い夜・清々しい宵は何の為にあるのか