一二三〇唐卒塔婆に血付く事
原文
- `昔唐土に大きなる山ありけり
- `その山の頂に大きなる卒都婆一つ立てりけり
- `その山の麓の里に年八十ばかりなる女住みけるが日に一度その山の峰にある卒都婆を必ず見けり
- `高く大きなる山なれば麓より峰へ登る程険しくはげしく道遠かりけるを雨降り雪降り風吹き雷鳴りしみ氷りたるにもまた厚く苦きし夏も一日も欠かず必ず登りてこの卒都婆を見けり
- `かくするを人え知らざりけるに若き男どもも童部の夏暑かりける比峰にのぼりて卒都婆の許に居つつ涼みけるにこの女汗を拭ひて腰二重なる者の杖にすがりて卒都婆のもとに来て卒都婆を廻りければ
- `拝み奉るか
- `と見れば卒都婆を打廻りては即ち返り返りする事一度にもあらずあまた度この涼む男どもに見えにけり
- `この女は何の心ありてかくは苦しきにするにか
- `と怪しがりて
- `今日見えばこの事問はん
- `と云ひ合はせけるほどに常の事なればこの女這ふ這ふ登りけり
- `男ども女に云ふやう
- `わ女は何の心によりて我等が涼みに来るだに暑く苦しく大事なる道を涼まんと思ふによりて登り来るだにこそあれ、涼む事もなし、別にする事もなくて卒都婆を見廻るを事にて日々に登りおるること怪しき女のわざなれ
- `この故知らせ給へ
- `と云ひければこの女
- `若き主達は実に怪しと思ふらん
- `かくまうで来てこの卒都婆見る事はこの比の事にしも侍らず
- `物の心知り始めてより後この七十余年日毎にかく登りて卒都婆を見奉るなり
- `と云へば
- `その事の怪しく侍るなり
- `その故を述給へ
- `と問へば
- `己が親は百二十にしてなん亡せ侍りにし
- `祖父は百三十ばかりにてぞ亡せ給へりし
- `それにまた父の祖父などは二百余年ばかりまでぞ生きて侍りける
- `その人々の云ひ置かれたりけるとて
- `この卒塔婆に血の付かん折になんこの山は崩れて深き海と成るべき
- `となん父の申し置かれしかば
- `麓に侍る身なれば山崩れなば打覆れて死にもぞする
- `と思へばもし血付かば逃げて退かんとてかく日毎に見侍るなり
- `と云へばこれ聞く男ども迂愚がり嘲りて
- `恐ろしき事哉
- `崩れん時も告げ給へ
- `など笑ひけるをも我を嘲りて云ふとも心得ずして
- `勿論なり
- `いかでかは我一人逃げんと思ひて告げ申さざるべき
- `と云ひて帰り下りにけり
- `この男ども
- `この女は今日はよも来じ
- `明日また来て見んに威して走らせて笑はん
- `と云ひ合はせて血を滴して卒都婆によく塗り付けてこの男ども帰り下りて里の者どもに
- `この麓なる女の日毎に峰に登りて卒都婆見るを怪しさに問へば云々なん云へば明日威して走らせんとて卒都婆に血を塗りつるなり
- `さぞ崩るらんものや
- `など云ひ笑ふを里の者ども聞き侍りて迂愚なる事の例に引き笑ひけり
- `かくてまたの日女登りて見るに卒都婆に血の大らかに付きたりければ女打見るままに色を違へて倒れ転び走り帰て叫び云ふやう
- `この里の人々疾く逃げ退きて命を生きよ
- `この山は只今崩れて深き海になりなんとす
- `と遍く告げまはして家に行きて子孫どもに家の具足どもおほせ持たせて己も持ちて手惑ひして里移りしぬ
- `これを見て血付けし男ども手打ちて笑ひなどするほどにその事ともなく私語めき喧騒り合ひたり
- `風の吹き来るか
- `雷の鳴るか
- `と思ひ怪しむほどに空もつつ闇になりてあさましく恐ろしげにてこの山動ぎ立ちにけり
- `こはいかにこはいかに
- `と喧騒り合ひたるほどにただ崩れに崩もて行けば
- `女は誠しけるものを
- `など云ひて逃げ逃げ得たる者もあれども親の行方も知らず子をも失ひ家の物の具も知らずなどして喚き叫び合ひたり
- `この女一人ぞ子孫も引き具して家の物の具一つも失はずしてかねて逃げ退きて静かに居たりける
- `かくてこの山皆崩れて深き海となりにければこれを嘲り笑ひし者どもは皆死けり
- `あさましき事なりかし