七三九虎の鰐取りたる事
原文
- `これも今は昔筑紫の人商しに新羅に渡りけるが商果てて帰り路に山の根に添ひて舟に水汲み入れんとて水の流れ出でたる所に舟を留めて水を汲む
- `その程舟に乗りたる者舷に居て俯伏して海を見れば山の影映りたり
- `高き岸の三四十丈ばかり余りたる上に虎蹲り居て物を伺ふ
- `その影水に映りたり
- `その時に人々に告げて水汲む物を急ぎ呼び乗せて手毎に艫をおして急ぎて舟を出だす
- `その時に虎躍り下りて舟に乗るに舟は疾く出づ
- `虎は落ち来る程のありければ今一丈ばかりをえ躍り着かで海に落ち入りぬ
- `舟を漕ぎて急ぎて行くままにこの虎に目を懸けて見る
- `暫しばかりありて虎海より出で来ぬ
- `游ぎて陸ざまに上りて汀に平なる石の上に上るを見れば左の前足を膝より噛み食ひきられて血あゆ
- `鰐に食ひ切られたるなりけり
- `と見るほどに
- `その切れたる所を水に浸してひらがりをるをいかにするにか
- `と見るほどに
- `沖の方より鰐虎の方をさして来る
- `と見るほどに虎右の前足をもて鰐の頭に爪を打ち立てて陸ざまに投げ上ぐれは一丈ばかり浜に投げ上げられぬ
- `仰け様になりてふためく頤の下を躍り懸りて食ひて二度三度ばかり打振りて萎々となして肩に打懸けて手を立てたるやうなる岩の五六丈あるを三つの足をもちて下り坂を走るが如く登りて行けば船の内なる者どもこれがしわざを見るに半らは死に入りぬ
- `舟に飛び懸かりたらましかばいみじき劔刀を抜きて合ふともかばかり力強く早からんには何わざをすべき
- `と思ふに肝心失せて船漕ぐそらもなくてなん筑紫には帰りけるとかや