八六〇進命婦清水寺詣の事
原文
- `今は昔進命婦若かりける時常に清水へ参りける間師の僧清かりけり
- `八十のものなり
- `法華経を八万四千余部よみ奉りたる者なり
- `この女房を見て欲心を起して忽ちに病になりて既に死なんとする間弟子ども怪しみをなして問ふて曰く
- `この病の有様打まかせたる事にあらず
- `思し召す事のあるか
- `仰せられずはよしなき事なり
- `と云ふ
- `この時語りて曰く
- `誠は京より御堂へ参らるる女房に近づきなれて
- `物を申さばや
- `と思ひしよりこの三箇年不食の病になりて今は既に邪道に落ちなんずる
- `と思うようになってから、この三年というもの、拒食の病をわずらって、今まさに邪道に落ちようとしておるのだ
- `と云ふ
- `茲に弟子一人進命婦の許へ行きてこの事を云ふ時に女程なく来れり
- `病者頭も剃らで年月を送りたる間鬚髪銀針を立てたるやうにて鬼の如し
- `されどもこの女な恐るる気色なくして云ふやう
- `年比頼み奉る志浅からず何事に候ふともいかでか仰せられん事背き奉らん
- `御身頽れさせ給はざりし前に、などか仰せられざりし
- `と云ふ時この僧掻き起されて念珠を取りて推し揉みて云ふやう
- `嬉しく来らせ給ひたり
- `八万余部読み奉りたる法花経の最第一の文をば御前に奉る
- `俗を生ませ給はば関白摂政を生ませ給へ
- `女を生ませ給はば女御后を生ませ給へ
- `僧を生ませ給はば法務の大僧正を生ませ給へ
- `と云ひ終りて即ち死ぬ
- `その後この女房宇治殿頼道】 -->に思はれ参らせてはたして京極大殿四条宮三井の覚園座主を生み奉れりとぞ