五七四陪従家綱行綱互に謀りたる事
原文
- `これも今は昔
- `陪従はさもこそは
- `と云ひながらこれは世になき程の猿楽なりけり
- `堀河院の御時内侍所の御神楽の夜仰せにて
- `今宵珍しからん事仕れ
- `と仰せありければ職事家綱を召してこの由仰せけり
- `承はりて
- `何事をかせまし
- `と按じて弟行綱を片隅へ招き寄せて
- `かかる事仰せ下されたれば我が按じたる事のあるはいかがあるべき
- `と云ひければ
- `いかやうなる事をせさせ給はんするぞ
- `と云ふに家綱が云ふやう
- `庭火白く燃きたるに袴を高く引き上げて細脛を出だして
- `よりによりに夜の更けてさりにさりに寒きとふりちうふぐりをありちうあぶらん
- `と云ひて庭火を三廻りばかり走り廻らんとも思ふ
- `いかがあるべき
- `と云ふに行綱が曰く
- `さも侍りなん
- `但しおほやけの御前にて細脛かき出だして
- `陰嚢炙らん
- `など候はんは便なくや候ふべからん
- `と云ひければ家綱
- `誠にさ云はれたり
- `さらば異事をこそせめ
- `賢う申し合はせてけり
- `と云ひける
- `殿上人など仰せを承りたれば
- `今宵いかなる事をせんずらん
- `と目を澄まして待つに人長
- `家綱召す
- `と召せば家綱出でてさせる事なきやうにて入りぬれば上よりもその事となきやうに思し召すほどに人長また進みて
- `行綱召す
- `と召す時行綱実に寒げなる気色をして膝を股までかき上げて細脛を出だして戦慄き寒げなる声にて
- `よりによりに夜の更けてさりにさりに寒きとふりちうふぐりをありちうあぶらん
- `と云ひて庭火を十まはりばかり走廻りたるに上より下ざまに至るまで大方どよみたりけり
- `家綱片隅に隠れて
- `きやつに悲しう謀られぬるこそ
- `とて中違ひて目も見合はせずして過ぐるほどに家綱思ひけるは
- `謀られたるは憎けれどさてのみ止むべきにあらず
- `と思ひて行綱に云ふやう
- `この事さのみぞある
- `さりとて兄弟の中違ひはつべきにあらず
- `と云ひければ行綱喜びて行き睦びけり
- `賀茂の臨時祭りの還立に御神楽のあるに行綱家綱に云ふやう
- `人長召し立てん時竹の台の許に寄りてそそめかんずるに
- `あれはなんするものぞ
- `と囃い給へ
- `その時
- `竹豹ぞ竹豹ぞ
- `と云ひて豹の真似を尽さん
- `と云ひければ家綱
- `ことにもあらずてのきゐはやさん
- `と言受けしつ
- `さて人長立ち進みて
- `行綱召す
- `と云ふ時に行綱やをら立ちて竹の台の許に寄りて匐ひ歩きて
- `あれは何するぞや
- `と云はばそれに付きて
- `竹豹
- `と云はん
- `と待つほどに、家綱、
- `かれはなんぞの竹豹ぞ
- `と問ひければ只今云はんと思ふ竹豹を先に云はれければ云ふべき言なくてふと逃げて走り入りけり
- `この事上まで聞し召してなかなかゆゆしき興にてありけるとかや
- `前に行綱に謀られたる返報
- `とぞ云ひける