六一六五大井光遠が妹強力の事
原文
- `今は昔甲斐の国の相撲大井の光遠は低太にいかめしく力強く足早く眉目事がらよりはじめていみじかりし相撲なり
- `それが妹に年二十六七ばかりなる女の眉目ことがら様子もよく姿も繊やかなるありけり
- `それは退きたる家に住みけるにそれが門に人に追はれたる男の刀を抜きて走り入りてこの女を質に取りて腹に刀を差し当てて居ぬ
- `人走り行きて兄の光遠に
- `姫君は質にとられ給ひぬ
- `と告げければ光遠が云ふやう
- `その御許は薩摩の氏長ばかりこそは質に取らめ
- `と云ひて何となくて居たれば告げつる男怪しと思ひて立帰りて物より覘けば九月ばかりの事なれば薄色の衣一重に紅葉の袴を著て口覆ひして居たり
- `男は大きなる男の恐ろしげなるが大の刀を逆手に取りて腹に差当てて足をもて後ろより抱きて居たり
- `この姫君左の手しては顔を塞ぎて泣く
- `右の手しては前に矢箆の荒作りたるが二三十ばかりあるを取りて手ずさみに節のもとを指にて板敷に押当てて躙れば朽木の柔かなるを押し砕くやうに砕くるをこの盗人目を付けて見るにあさましくなりぬ
- `いみじからん兄の主鉄槌を持ちて打ち砕くともかくはあらじ
- `ゆゆしかりける力かな
- `このやうにては只今の間に我は取り砕かれぬべし
- `無益なり
- `逃なん
- `と思ひて人目をはかりて飛び出でて逃げ走る時に末に人ども走り合ひて捕へつ
- `縛りて光遠が許へ具して行きぬ
- `光遠
- `いかに思ひて逃げつるぞ
- `と問へば申すやう
- `大きなる矢箆の節を朽木なんどのやうに押し砕き給つるをあさましと思ひて恐ろしさに逃げ候ひつるなり
- `と申せば光遠打笑ひて
- `いかなりともその御許はよも突かれじ
- `突かんとせん手を取りて掻い捻ぢて上ざまへ突かば肩の骨は上ざまへ出でて捻られなまし
- `かしこく己が肱抜かれまし
- `宿世ありて御許は捻ぢざりけるなり
- `光遠だにもおれをば手殺しに殺してん
- `肱をば捻ぢて腹胸を蹈まんに己は生きてんや
- `それにかの御許の力は光遠二人ばかり合はせたる力にておはするものを
- `さこそ細やかに女めかしくおはすれども光遠が手戯れするに捕へたる腕を捕へられぬれば手広ごりて免しつべきものを
- `あはれ男子にてあらましかば逢ふ敵もなくてぞあらまし
- `口惜しく女にてある
- `と云ふを聞くにこの盗人死ぬべき心地す
- `女と思ひていみじき質を取たると思ひてあれどもその儀はなし
- `おれをば殺すべけれども御許の死ぬべくはこそ殺さめ
- `おれ死ぬべかりけるにかしこう疾く逃げてのきたるよ
- `大きなる鹿の角をば膝に当てて小さき枯木の細きなんど折やうに折るものを
- `とて追ひ放して遣りけり