六一九〇極楽寺僧仁王経の験を施す事
原文
- `これも今は昔堀川太政大臣兼道公と申す人世心地大事に煩ひ給ひて御祈どもさまざまにせらる
- `世にある僧どもの参らぬはなし
- `参り集ひて御祈どもをす
- `殿中騒ぐ事限りなし
- `爰に極楽寺は殿の造り給へる寺なり
- `その寺に住みける僧ども
- `御祈せよ
- `と云ふ仰せもなかりければ人も召さず
- `この時にある僧の思ひけるは
- `御寺に安く住む事は殿の御徳にてこそあれ
- `殿失せ給ひなば世にあるべきやうなし
- `召さずとも参らん
- `とて仁王経を持ち奉りて殿に参りて物騒がしかりければ中門の北の廊の隅に屈まり居てつゆ目も見かくる人もなきに仁王経を他念なく読み奉る
- `二時ばかりありて殿仰せらるるやう
- `極楽寺の僧某の大徳やこれにある
- `と尋ね給ふにある人
- `中門の脇の廊に候ふ
- `と申しければ
- `それ此方へ呼べ
- `と仰せらるるに人々怪しと思ひそこばくのやんごとなき僧をば召さずしてかく参りたるをだに
- `由なし
- `と見ゐたるをしも召しあれば心も得ず思へども行きて召す由を云へば参る
- `高僧どもの著き並びたる後ろの縁に屈まり居たり
- `さて
- `参りたるか
- `と問はせ給へば南の簀子に候ふ由を申せば
- `内へ呼び入れよ
- `とて臥し給へる所へ召し入れらる
- `無下に物も仰せられず重くおはしつるにこの僧召す程の御気色のこよなくよろしく見えければ人々怪しく思ひけるに述給ふやう
- `寝たりつる夢に恐ろしげなる鬼どもの我が身を取り取りに打領じつるにびんづら結ひたる童子の楚持ちたるが中門の方より入り来て楚してこの鬼どもを打ち払へば鬼ども皆逃げ散りぬ
- `何ぞの童のかくはするぞ
- `と問ひしかば
- `極楽寺の某がかく煩はせ給ふ事いみじう歎き申して年来読み奉る仁王経を今朝より中門の脇に候ひて他念なく読み奉りて祈り申し侍る
- `その聖の護法のかくやませ奉る悪鬼どもを追ひ払ひ侍るなり
- `と申すと見て夢覚めてより心地の掻ひ拭ふやうに善ければその悦び云はんとて呼びつるなり
- `とて手を摩りて拝ませ給ひて棹に懸かりたる御衣を召してかづけ給ふ
- `寺に帰りてなほ々御祈よく申せ
- `と仰せらるれば喜びて罷り出づる程僧俗の見思へる気色やんごとなし
- `中門の脇に終日に屈み居たりつる覚えなかりしに殊の外美々しくてぞ罷り出でにける
- `されば人の祈は僧の浄不浄には依らぬ事なり
- `ただ心に入れたるが験あるものなり
- `母の尼して祈をばすべし
- `と昔より云ひ伝へたるもこの心なり