五二三用経荒巻の事
現代語訳
- `昔、左京の大夫で、年季の入った公卿がいた
- `年老いてたいへん古めかしかった
- `下京あたりにある家に出歩きもせず籠っていた
- `その左京職の四等官に紀用経という者がいた
- `長岡に住んでいた
- `司の役人なので、この大夫のともとへも来て機嫌をとっていた
- `この用経が大殿に参上して贄殿にいたとき、淡路守・源頼親がたくさん奉った鯛の荒巻を贄殿に持って参上した
- `贄殿の長官である義澄に二巻、用経がもらい受けて屋根裏の間木という棚に載せると、義澄に
- `これを、人に取りに伺わせた折、お渡し下さい
- `と言っておいた
- `内心
- `これを我が司の大夫に贈って機嫌をとろう
- `と思い、間木に載せて左京の大夫のもとへ行って見ると、大夫の君は、出居に客人が二・三人来ていて、食事をふるまうべく、囲炉裏に火をおこすなどして、自分のところで何か食べようとしたが、たいした肴もなかった
- `鯉や鳥などが欲しそうであった
- `そこで、用経が
- `用経のもとに摂津国の下人が鯉の荒巻を三巻持って参りましたが、一巻食べて味見をしたところ、なんともいえず美味でしたので、あと二巻は手をつけずに置いてございます
- `急いで参りましたものの、下人がおらず、持参いたしませんでした
- `ただいま取りに遣わそうと思いますが、いかがでしょう
- `と、声高に、得意顔で、袖口を繕い、口元を拭うなどして、背を伸ばし覗き込んで言えば、大夫は
- `ちょうどいいものがないから、なによりだ
- `急いで取りに遣れ
- `と言った
- `客人たちも
- `うまい物がないようだが、今は九月、この時期の鳥の味もひどい
- `鯉にはまだ早い
- `いい鯛とは実に珍しい
- `など言い合っていた
- `用経は馬を控えている童子を呼びつけると
- `馬を御門の脇につなぎ、すぐ走って大殿に参り、贄殿の預の主に
- `あの置いてある荒巻をいますぐお渡し下さい
- `と囁き
- `すぐさま持って来い
- `他所に寄るな
- `急いで走れ
- `と言って遣った
- `そして
- `まな板を洗って持って参れ
- `と声高く言うと、すぐさま
- `用経が本日の料理人を仕りましょう
- `と言って、真魚箸を削り、鞘ある刀を抜いて準備をしながら
- `ああ遅い
- `どこだ、来たか
- `などと気を揉んでいた
- `遅い、遅い
- `と言っているうちに、遣いの童子が木の枝に荒巻を二巻結わえつけて持ってきた
- `よしよし、えらいぞ、飛ぶように走って帰って来たな
- `と誉めて受け取り、まな板の上に置くと、大げさに大鯛でも造るかのように左右の袖を繕い、紐で括り結い、片膝を立て、もう片膝を伏せて、実に似つかわしい格好で荒巻の縄をぶつぶつと押し切り、刀で藁を押し開けば、ぼろぼろと何かがこぼれ落ちるので、見れば、それは平足駄、古尻切、古草鞋、古沓といった物ばかり、用経はあきれて、刀も真魚箸も捨て、沓を履くのももどかしく逃げていった
- `左京の大夫も客人もあきれて目も口も開いていた
- `前にいた侍たちもあさましくて、目を見合わせて居並ぶ顔つきはなんとも妙であった
- `物を食い酒を飲む遊びもみな興醒めしてしまい、一人立ち、二人立ち、と皆立ち去っていった
- `左京の大夫は
- `あの男のことは、これほどのえも言われぬ物狂いと知ってはいたが、司の長、と懐いていたので、良しとは思わぬまでも、追い払うほどのこともなく様子を見ていたが、このような真似をして人を謀るとはいかがなものか
- `運の悪い人は些細なことにつけてもこういう目に遭う
- `どう世の人が聞き伝え、世の笑い種にするのか
- `と、空を仰いで嘆くことこの上なかった
- `用経は馬に乗って駆け散らし、殿に参って贄殿預の義澄に会うと
- `この荒巻を惜しいと思われるなら穏やかにお取りになればよいものを、このようなひどい事をなさるとは
- `と泣かんばかりに恨み騒ぐことこの上ない
- `義澄が
- `これはまたなんということを仰るのか
- `荒巻をお渡しして後、すぐ宿へ下がるとき、下男に
- `左京の大夫の主のもとから荒巻を取りに来たら取って使いに渡せ
- `と言いつけて退き、今戻って見れば荒巻がなくなっていたので
- `どこにやった
- `と訊いたところ
- `しかじかのお使いが見えたので、お言い付けどおり取ってお渡ししました
- `と言うので
- `なるほどそうか
- `と聞いておったのです
- `子細はわかりません
- `と言ったので
- `それでは仕方ありませんが、言い付けられた人を呼んで、尋ねてください
- `と言うと、下男を呼び、訊こうとしたが留守だった
- `すると膳部の男が
- `私が部屋に入って聞いておりましたところ、若い人たちが
- `間木に荒巻が置かれているぞ
- `これは誰が置いたんだ
- `なんであるんだ
- `と問えば、誰かが
- `左京の属の主のものだ
- `と言って
- `なら問題ない
- `ちょっと考えがある
- `と、取り下ろして鯛をみな切って食べてしまい、代わりに古草履や平足駄などを入れて間木に置いた、というのを耳にしました
- `と言うと、用経がそれを聞いて怒鳴り散らすことこの上ない
- `その声を聞き、人々は
- `かわいそうに
- `とは言わず、大笑いした
- `用経は途方にくれて
- `こんなに大笑いされる間は、出歩くまい
- `と思い、長岡の家に籠もっていた
- `その後、左京の大夫の家にも行けなくなってしまったという