五八七観音経蛇と化し人を助け給ふ事
現代語訳
- `昔、鷹飼いを生業としている者があった
- `巣立つ鷹を捕らえようと、飛ぶ後をつけて行くと、遥かな山奥の谷の崖淵の高い梢に鷹の巣を見つけた
- `これはよいものを見た
- `と喜んで、一旦家へ引き返し
- `そろそろいい時期になった
- `と思しき頃、雛を奪いに再び行ってると、言葉を失うほどの深い山と深い谷で、底さえ見えない高い高い榎の木の谷に突き出した枝先に巣をかけて雛を育てていた
- `鷹は、巣の周りを飛んでいる
- `見れば、実に見事な鷹なので
- `きっと雛も素晴らしかろう
- `と思い、後先考えずに上っていくと、今まさに巣の枝に上ろうとした途端、踏まえていた枝が折れて谷底へ転落してしまった
- `谷の片岸に突き出た木の枝にひっかかったので、その枝につかまったが、生きた心地もせず、なすすべもない
- `見下ろせば、谷底も見えない深い谷である
- `見上げれば、遥かに高い崖である
- `よじ登ることもできない
- `従者らは
- `谷に落ちたので、間違いなく死ぬだろう
- `と思う
- `とはいえ、どうなったか見よう
- `と思い、崖淵に寄り、どうにか爪先立ち、恐る恐るほんの少し見下ろせば、うかがい知れぬ谷の底は木の葉が繁り視界を隔てたさらに下で、まったく見通せない
- `目が回って、情けなくも少しも見ていられない
- `手立てはまったくないが、かといってそのままにしておくわけにもいかないので、皆家へ戻り、しかじかと語れば、妻子らが泣き悲しんだが仕方がない
- `会わぬまでも見に行きたいが、もはや道もわかりません
- `また、たとえいらしても、うかがい知れぬ谷の底、いくら覗き込んであちこち見回しても見えないでしょう
- `と言うと
- `たしかにそうなってしまうでしょう
- `と他の者らも言うので、行かなかった
- `さて、谷では、なすすべなく、岩肌の盆ほどの広さに突き出た面に腰をかけ、木の枝につかまって、身じろぎひとつできずにいた
- `ほんの少しでも動けば谷に落ちてしまう
- `もうまったく何もできない
- `これまで鷹飼いをして生きてきたが、幼い頃より観音経を習い読み続けてきたので
- `お助けください
- `と、一心に願って、この経を昼となく夜となく延々と読み続けた
- `弘誓深如海
- `とあるあたりを読んでいると、谷の底のほうから何かがそわそわとやって来るのを感じたので
- `なんだろう
- `と思いそっと見てみれば、おそろしく大きな蛇であった
- `長さ二丈ほどに見えるのがこちらを目指して這ってくるので
- `おれはあの蛇に食われてしまうのか
- `ああ困った
- `観音様お助けくださいと思っていたのに、これはどういうわけだ
- `と思いつつ念じていると、迫りに迫って膝元を過ぎたものの、自分を飲み込もうとはせず、ただ、谷から上へと登っていこうとする気配なので
- `そうだ
- `これにしがみついたら上がれるかもしれない
- `と思い立ち、腰の刀を抜いて蛇の背中に突き立て、それにすがると、蛇の行くまま引かれて谷から岸の上までするすると上がっていった
- `そして、男が離れ退くとき刀を抜こうとしたが、強く突きたてたせいかびくともしなかったので、柄を外すと、背に刀を刺したまま蛇はそろりと這い、向かいの谷へと渡っていった
- `男は嬉しくなって家に急いで帰ろうとしたが、ここ二、三日少しも体を動かさず物も食わずにいたので、影のように痩せ衰えてしまい、なんとか、ほうほうの体で家にたどりついた
- `一方、家では
- `もうあきらめよう
- `と、弔いの経などをあげていたが、思いがけずよろよろと帰ってきたので、驚き泣き騒ぐことこの上ない
- `一部始終を語り
- `観音様の御助けがあってこうして生き延びられた
- `と不思議な出来事を泣く泣く語って、食事をとり、その夜は休み、翌朝早起きをして手を洗い
- `常々読んでいる経を読もうと引き開けてみれば、あの谷で蛇の背に突き立てた刀がその経の
- `弘誓深如海
- `という文字に刺さっていた
- `それを見るに、実にあさましいなどとは語るも愚かである
- `あれは、この経が蛇に姿を変え、自分を助けてくださったのだ
- `と思うと、実に尊く思われ
- `ああありがたい
- `思うことこの上なかった
- `周囲の者たちは、これを見聞きし、驚きあきれた
- `いまさら言うまでもないが、観音様に祈りを捧げて、その霊験がないなどということは絶対にない