八九〇帽子叟孔子に与ふる問答の事
現代語訳
- `昔、唐土の孔子が、林の中の丘のようになったところで散歩などをしていた
- `自分は琴を弾き、弟子たちは書を読む
- `そこへ、舟に乗った帽子姿の翁が、舟を葦につなぎ、陸へ上って、杖をつき、琴の調べが終わるまで聞いていた
- `人々は
- `怪しい者か
- `と思った
- `この翁が、孔子の弟子たちを呼んだので、弟子の一人が近寄った
- `翁は
- `この琴を弾いておられるのはどなたかな
- `もしや国の王か
- `と尋ねた
- `そうではありません
- `と答えた
- `では、国の大臣か
- `そうでもありません
- `では、国の司か
- `そうでもありません
- `では、何者か
- `と尋ねると
- `ただ国の賢人として、政を行い、悪しきことを正されている立派な人です
- `と答えた
- `すると翁は嘲笑い
- `とんでもない痴れ者だ
- `と言って去っていった
- `弟子は、不思議に思い、聞いたままを語った
- `孔子はそれを聞き
- `賢人に相違ない
- `すぐお呼びせよ
- `弟子は走っていき、舟を漕ぎ出そうとしていたところを呼び戻した
- `呼ばれて、翁はやって来た
- `孔子は
- `いかなる御方ですか
- `翁は
- `たいした者ではない
- `ただ舟に乗り、気晴らしにあちこち歩いている者である
- `そなたはまたいかなるお人か
- `世の政を正すために、あちこち歩いている者です
- `翁は
- `極めつきの浅はか者よ
- `世間には影を嫌う者がいる
- `太陽の下に出て、離れようと走っても影が離れることはない
- `日陰で心穏やかにしておれば影は離れていくのに、そうすることもせず、太陽の下に出て離れようとしたところで、力尽きても影は離れない
- `また、犬の屍が水に流されて下っていくのを取ろうと走る者は、水に溺れて死ぬ
- `このように無益なことをしておる
- `ただ、然るべき居場所を定めて一生を送ることこそが今生の望みなのだ
- `それをせずに、心を世間に合わせて騒ぐのは、極めて浅はかなことだ
- `と言って、返答も聞かず舟に帰ると、乗って漕ぎ出した
- `孔子はその後ろを見て、二度拝み、棹の音が聞こえなくなるまで拝んでいた
- `そして音がしなくなると、車に乗って帰っていったと人は語った