現代語訳
- `ところが、安芸の島で、他の船も見かけなかったときのこと、舟が一艘漕ぎ寄せてくる
- `見れば、船の主と思しき、二十五・六歳ほどの清楚な男が乗っている
- `他は若い男が二・三人ほどで、人数は少なく見える
- `美しい女たちもいる
- `偶然、簾の隙間から、皮籠などがたくさん見えた
- `品物をたくさん積んでいるが、頼もしそうな者もなく、ただ自分の舟についてくる
- `屋形の上には若い僧が一人いて、経を読んでいる
- `下れば、同じように下り、島へ寄れば、同じように寄る
- `停まればそれも停まる、といった具合なのだが、この舟は見たこともない
- `怪しく思い、尋ねてみようと
- `これは、どなたがこうしてこの舟についてくるのか
- `いったいどなたなのか
- `と言うと
- `周防国より急用があって参るのですが、しかるべき頼もしい者もないため、恐ろしくて、この舟を頼みにと、こうしてついているのです
- `と言うので
- `実におかしな話だ
- `と思い
- `これは京へ向かうのではない
- `ここで人待ちをしている
- `待ち受けて周防の方へ下ることになっている
- `導けるわけがない
- `京に上る舟について行くがよかろう
- `と言うと
- `では明日そのようにします
- `今宵はこのまま舟につかせてください
- `と、島陰までついて来て停泊した
- `仲間らが
- `今こそいい時だ
- `さあ、この舟の荷を移そう
- `と、この舟に皆乗り込めば、わけもわからず慌てふためいていた
- `荷はある限りみな我らの舟に移した
- `人は男女を問わずみな海へ投げ込むと、主は手をこそこそと擦り合わせ、水晶の数珠の緒が切れたかのような涙をほろほろとこぼして
- `ある物は全部差し上げます
- `どうか命ばかりはお助けください
- `京にいる老いた親が死にかけており
- `もう一目会いたい
- `と、夜を日に継ぎ知らせをよこしたので、急ぎ行く途中なのです
- `と、しっかり言うこともできずに、我が目を見て必死に両手を合わせる姿は憐れであった
- `こいつにこんなことを言わせておくな
- `いつものようにすぐ始末しろ
- `と言うと、目を合わせて泣き惑う姿は、ひどく憐れであった
- `なんとも酷いと思いはしたが
- `そう言ったところでどうすべくもない
- `と思って海に投げ込んでしまった
- `舟の屋形の上で経袋を首にかけて夜昼読んでいた二十歳くらいのひ弱そうな僧を捕まえて、海へ投げ込んだ
- `すると慌てて経袋を取り、水面に浮かびながら、経袋を手に捧げ持ち、漂っているので
- `不思議な法師だ、まだ死なん
- `と、舟の櫂で頭を殴りつけ、背中を突き込んだが、なお浮き上り浮き上がり、経を捧げている
- `不思議に思ってよく見ると、僧の水に浮かんでいる回りに、白い木枝を持ち、みずらに結った美しい童子が二・三人ほど見える
- `一人は僧の頭に手をかけ、一人は経を捧げた腕をとっているように見える
- `仲間らに
- `あれを見ろ
- `僧にくっついている童子はなんだ
- `と言ったが
- `どこだ、どこだ
- `人などおらんぞ
- `と言う
- `自分の目にははっきりと見える
- `童子が寄り添っているので、僧は少しも海に沈まない
- `浮かんでいる
- `合点がいかないので確かめようと
- `これにつかまって来い
- `と、棹を差し出し、僧が掴まったのを引き寄せると、仲間らは
- `なんでこんなことをするのか
- `つまらんことをする
- `と言ったが
- `まあ、この僧一人だけは生かしてやろう
- `と言って舟に乗せた
- `近づくと、童子は見えなくなった
- `僧に
- `そなたは京の者か
- `どこへ行くのか
- `と問えば
- `田舎の者です
- `法師になり、長く戒も受けておりません
- `なんとか京に上って受戒したい
- `と話したところ
- `では、私と一緒に来れば、比叡山の知り合いに話をつけて、ならせてあげます
- `と言ってくださったので、参る途中だったのです
- `と言った
- `そなたの頭や腕にとりついていた童子は誰なのか
- `何なのか
- `と問うと
- `いつ、そんな者がいましたか
- `覚えがありません
- `と言う
- `経を捧げていた腕にも童子が寄り添っていたんだが、そもそも、今まさに死ぬというのに何を思ってその経袋を捧げていたのか
- `と問うと
- `死ぬのは覚悟していたので、命は惜しくありませんでした
- `己は死すとも、経は、わずかの間も濡らすまい
- `と、捧げ持っていたのですが、腕はだるいどころか却って軽く、腕も長くなるような感じで、高く捧げていられたので
- `御経の効験に違いない
- `と、死にかけつつも思いました
- `命を長らえさせてもらえるとはありがたい
- `と泣くので、この外道のような心にも実に尊く感じられ
- `これから国へ帰ろうと思うか
- `もし、京へ上って受戒を遂げようとする心があるならば、送ってやろう
- `と言うと
- `もはや受戒の心ありません
- `まっすぐ帰ろうと思います
- `と答えた
- `これから帰してやろうと思う
- `それにしても、美しい童子だが、何があのように見えたのだろうか
- `と言うと、僧は、実に尊く感じ入り、ほろほろと泣いた
- `七つのときより法華経を読み奉り、日頃も余念なく、なにやら恐ろしく思えたときでもそのまま読み奉りましたので、十羅刹女がおいでになったに違いありません
- `と語るのを聞けば、この婆羅門のような者の心に
- `仏経とは、実に尊いものだ
- `という思いが起こり、この僧と共に山寺などへ行こうという気持ちになった
- `そして、この僧と二人、生きる糧を少し持って、残りの物はかまわずに、皆仲間らに渡して行こうとすれば、仲間らが
- `さては狂ったか
- `どういうわけだ
- `俄道心など、尋常ではないぞ
- `物でも憑いたか
- `と制したが、聞きもせず、弓、胡録、太刀、刀もみな捨てて、僧と共に、この者の師のいる山寺へ行って法師となり、そこで経を一部読み、修行をしてきた
- `このような罪のみを作ったことが恥知らずに思え、舟の主が手をすり合わせてはらはらと泣き惑うのを海に突き落としてから、すこし道心が起こったのだ
- `さらに、この僧に十羅刹女が寄り添っていらしたことを思うと、法華経がありがたく、読み奉りたいと思われて、にわかにこのような身となった
- `そう語った