九一三二空入水したる僧の事
現代語訳
- `これも昔の話、桂川に身を投げる聖であると、まず祇蛇林寺において百日懺悔の儀を行えば、遠近の人々が道にあふれ、拝みに行き交う女房らの車などで隙間もなかった
- `見れば三十歳ほどのほっそりした僧が、人と視線を合わせることなく、目をつぶって時々阿弥陀仏を唱えている
- `その間は唇だけが動いているが、念仏のように見える
- `また、時々小さく息を吐くようにしつつ、集まった人々の顔を見渡せば、その視線と合わせようと集まった人々が、おし合いへし合いひしめき合っていた
- `そして、既にその日の早朝は堂へ入っていて、先に入っていた僧たちが大勢後に歩み続いた
- `最後尾の雑役の車にこの僧が紙の衣と袈裟などを着て乗った
- `何と言っているのか、唇が動く
- `人と視線も合わせず、時々大きく息をつく
- `道筋に立ち並んでいる見物人たちが打撒きを霰が降るように撒き散らす
- `聖は
- `こんなふうに目鼻に入る
- `我慢できない
- `志があるなら、紙袋などに入れて私のいた所へ送ってもらいた
- `と時々言う
- `これを下賤の者は手を擦って拝む
- `少し分別のある者の中には
- `なぜこんなことをこの聖は言うのか
- `今まさに入水しようとしているのに
- `祇陀林へやれ
- `目鼻に入ってたまらない
- `などと言っているのはどうも怪しい
- `などとささやく者もいた
- `そんな中、車を進め、七条大路のはずれまで行くと、京にも増して
- `入水の聖を拝もう
- `と、川原の石より大勢の人が集まっていた
- `川縁へ車を寄せて停めると、聖は
- `今は何時か
- `と言う
- `供の僧たちが
- `申の刻を過ぎた頃です
- `と言うと
- `往生の刻限にはまだ早いな
- `いま少し暮れるまで待て
- `と言う
- `待ちかねて、遠くから来た者は帰ったりして、川原は人が少なくなった
- `これを見届けようと思う者はまだ立っている
- `その中に僧がおり
- `往生に刻限など定めようか
- `得心がいかぬ
- `と言った
- `そうこうするうち、この聖はふんどし姿で西に向かい、川へざっと入ったが、舟の縁にある縄に足を引っ掛けてずぶりと入らずにじたばたもがいているので、弟子の聖が外したが、それでも逆さまに入ってごぶごぶとしているので、川の中へ入って行って
- `よく見よう
- `と立った男が、この聖の手をつかんで引き上げれば、左右の手で顔を払い、含んだ水を吐き捨てて、この引き上げた男に向かい、手を合わせ
- `大きな御恩を被りました
- `このご恩は極楽でお返しします
- `と言って陸へ駆け上ると、そこいらに集まった者らや童部らが川原の石をつかんで撒きかけるように投げつけた
- `裸の法師が川原を下って走るので、集まった者らが次から次へと投げつけ、頭をかち割られてしまった
- `この法師であったか、大和から人のもとへ送るとき、手紙の上書きに
- `前の入水の上人
- `と書いたという