一九一五四宗行の郎等虎を射る事
現代語訳
- `昔、壱岐守宗行の郎等をつまらないことから主が殺そうとしたので、小船に乗って逃げ、新羅国へ渡って隠れていたとき、新羅の金海というところで人々がひどく騒いでいた
- `何事だ
- `と訊けば
- `虎が国府に入り込んで人を食うのです
- `と言う
- `男は
- `虎は何頭ほどいるのか
- `と訊いた
- `一頭だけですが、突如現れて、人を食っては逃げ食っては逃げするのです
- `と言うのを聞いて、男が
- `その虎と戦い、一矢射て死ぬとするか
- `虎がすぐれているなら共に死のう
- `むざむざ食われたりなどはしまい
- `この国の人は兵の道に劣っているのだろう
- `と言ったのを人が聞き、国守に
- `しかじかと日本人が申しております
- `と伝えると
- `たいしたものだな
- `呼べ
- `ということになり、人が来て
- `お呼びです
- `と言うと、男は参上した
- `人食い虎をたやすく射止めると申しているそうだが、それは本当か
- `と問われたので
- `そう申しました
- `と答えた
- `守が
- `なにゆえそのようなことを申せるのか
- `と問うので、男は
- `この国の人は身を庇いながら敵を倒そうと思っているので精神集中できず、このような猛獣相手では、我が身などやられてしまうので、太刀打ちできますまい
- `日本人は自分の身などなきものにして立ち向かうので、首尾よくいくこともあります
- `弓の道に携わる者がどうしてその身を考えることがありましょう
- `と言うと、守は
- `では、虎を必ず射殺せるのか
- `と言うので
- `自分は死ぬか生きるかわかりませんが、必ずやそれを射止めましょう
- `と言った
- `実にたいしたものだ
- `ならば、必ず必ず仕留めよ
- `存分に褒美をとらせよう
- `と言うので、男が
- `それにしてもどこにいるのですか
- `人をどのようにして食うのですか
- `と言うと、守は
- `いつのことであったか、国府の中に入ってきて、人をひとり、頭を食い肩に掛けて走り去った
- `と言った
- `男が
- `では、どのようにして食ったのですか
- `と問えば、ある人が
- `虎は、まず人を食おうとするときは、猫が鼠を狙うようにひれ伏して、少し間を置いてから大口を開いて飛びかかり、頭を食い、肩に掛けて走り去るのです
- `と言う
- `とにもかくにも、一矢射てから食われよう
- `その虎の居場所を教えてもらいたい
- `と言うと
- `これより西に二十町あまり離れたところに麻畑があって、そこに潜んでいます
- `人は怖がってその付近へは行きません
- `と言う
- `自分はよくわからないが、とにかくそちらに向かうことにする
- `と言うと、武具を背負って向かった
- `新羅の人々は
- `日本の人はあさはかだ
- `虎に食われてしまう
- `と集まって非難した
- `こうして、この男が虎の居場所を尋ね聞きつつ行って見ると、たしかに麻畑があって、はるばると生い茂っている
- `麻の丈は四、五尺ほどであった
- `その中を分け入って見れば、たしかに虎が臥せっていた
- `尖矢をつがえ、片膝を立てて待った
- `虎が人の匂いを嗅ぎつけて身を平め、猫が鼠を窺うような仕草をするところを、男が矢を番え、音も立てずに射ると、虎は大口を開いて男の上に踊りかかろうとするので、弓を強く引き絞り、上に飛び掛ってくるところにすかさず矢を放てば、下顎の下からうなじにかけて七・八寸ほど尖矢が突き刺さった
- `虎が仰向けになり倒れてあがくところを、雁股をつがえ、二度腹を射た
- `二度とも矢は地面まで貫いて殺し、矢も抜かずに国府に帰って守にしかじかと射殺した由を述べると、守は感動し、多くの人を連れて虎のところへ行ってみれば、矢は三本とも確実に射抜いていた
- `見るだに凄まじかった
- `たしかに、百千の虎が襲い掛かってたところで、日本人が十人ほど馬で向かって射たなら、虎に何ができよう
- `この国の人は、一尺ほどの矢に錘のような矢尻を付け、それに毒を塗って射るので、ついにはその毒ゆえに死にはするが、ただちにその場で射殺すことはできない
- `日本人は、自分の命を少しも惜しむことなく大きな矢で射るので、その場で射殺してしまう
- `やはり兵の道は日本人には敵うべくもない
- `だから
- `ますます恐ろしく思える国である
- `として恐れた
- `そして、この男を惜しんで留め、手厚くもてなしたが、妻子を恋しがって筑紫へ帰り、宗行のもとへ行ってその由を語れば、日本人の面目を立てた者であるとして勘当も許した
- `男は、褒美としてもらった多くの品々を宗行にも渡した
- `多くの商人たちは、新羅の人の話を聞き継いで語ったので、筑紫にも、この国の武者はたいした者だと広まったという