一〇一六九慈覚大師纐纈城入り給ふ事
現代語訳
- `昔、慈覚大師・円仁が仏法を習い伝えようと唐へ渡っていた折、会昌年間に唐の武宗が仏法を迫害して、堂塔を壊し、僧尼を捕らえて処刑し、あるいは還俗させるという動乱に遭遇した
- `大師をも捕らえようとしていたので、逃げてある堂の中へ逃げ込まれた
- `使者が堂に入って捜している間、大師はどうしようもなくて仏像の間に逃げ込んで不動尊を念じておられたとき、使者が入っ捜し回ると、新しい不動尊が仏像の中にいらした
- `それを不思議に思って抱き下ろしたところ、大師が元の姿に戻られた
- `使者は驚き、帝にこの由を奏した
- `帝は
- `他国の聖だ
- `速やかに追放せよ
- `と仰せになったので、追放した
- `大師が喜んで他国へお逃げになると、遥かな山を隔てて人家があった
- `築地を高く廻らして、ひとつの門があった
- `そこに人が立っていた
- `喜んで尋ねると
- `これは一人の長者の屋敷だ
- `貴僧は何者か
- `と問う
- `そこで
- `日本より仏法を習い伝えるべく渡って来た僧です
- `ところが、このようなひどい動乱に遭ったので、しばらく隠れていようと思っているのです
- `と答えると
- `ここはまず人がやって来ない所です
- `しばらくここにいらして、世が鎮まって後に出て、仏法もお習いなさい
- `と言うので、大師が喜んで中に入ると、門を固く閉ざして奥の方へ入ったので、後ろからついて行って見ると、様々な建物が軒を連ねて建てられており、人が多く、がやがやしていた
- `その近くに住まわせた
- `さて
- `仏法を習えそうな所はあるか
- `と見歩くいたが、仏法や僧侶などはまったく見当たらない
- `後方の山寄りに一軒の家があった
- `立ち寄って聞くと、人の呻く声が数多する
- `不思議に思って垣根の隙間から覗いて見ると、人を縛って上から吊り下げ、下に壺などを据えて、血を垂らして入れている
- `驚いて理由を尋ねたが、返事がない
- `とても怪しくて、また別の所で訊こうとすると、同じく呻く声がする
- `覗いて見ると、色がひどく青ざめ、痩せ細った者どもが大勢臥せっていた
- `一人を招き寄せ
- `これはどういうことだ
- `どすいてそんなにつらそうにしているのか
- `と問えば、木切れを持ち、細い腕を差し出して、なにか土に書きはじめた
- `ここは纐纈城です
- `ここへ来た人には、まず口がきけなくなる薬を食わせ、次に肥える薬を食わせます
- `その後、高い所に吊り下げ、所々を刺し切って血をしたたらせ、その血で纐纈を染めて売るのです
- `それを知らないとこのような目に遭ってしまいます
- `食べ物の中に胡麻のように黒ずんだものがあります
- `それが口のきけなくなる薬です
- `そのような物をよこしたら、食う真似をして捨てなさい
- `そして人が何か言ったら、ただ呻きなさい
- `その後に、なんとしてでも逃げる算段をして逃げなさい
- `門は固く閉ざしてあるから、まず逃げられません
- `と詳しく書いて教えると、元いた所に戻った
- `そうこうするうちに、人が食べ物を持ってきた
- `教えられたとおり、その色をした物が中にあった
- `食うふりをして懐に入れ、後で捨てた
- `人が来てものを問うたときは、呻くだけで何も言わなかった
- `うまくいった
- `と思い、肥える薬をあれこれ食わせようとしたが、同じく食う真似をするだけで食わなかった
- `人の立ち去った隙に丑寅の方角に向かって
- `我が比叡山の三宝、お助けください
- `と手を合わせて祈請なさると、大きな犬が一頭現れ、大師の袖を咥えて引っ張った
- `なにかあるな
- `と思い、引く方へと出れば、思いがけぬ水門のある所から引き出された
- `外に出ると、犬は消えていた
- `よし今だ
- `と思い、足の向いた方へ走った
- `遥かに山を越えると人里があった
- `出会った人が
- `あなたはどこからいらした人ですか、そんなに走られて
- `と訊くので
- `こういう場所へ行ったので、逃げてきたのです
- `と言われると
- `なんと恐ろしいことか
- `それは纐纈城です
- `そこへ行った人の帰ってきたためしがありません
- `よほどの仏のお助けでなければ出られるはずがありません
- `なんと尊い方でしょう
- `と、拝んで去った
- `それからさらに逃げて、再び都へ入り忍んでいたが、会昌六年に武宗が崩御した
- `翌年の大中元年、宣宗が帝位に即き、仏法の迫害が止んだので、思い通りに仏法を習い、十年越しで日本へ帰り、真言などを広めたという