一一七四海雲比丘弟子童の事
現代語訳
- `昔、海雲比丘が道を歩いていると、十歳ほどの童子と出会った
- `比丘は童子に
- `何をしている童子か
- `とお尋ねになった
- `童子は
- `ただ道を歩いている者です
- `と答えた
- `比丘が
- `おまえは法華経を読んだことがあるか
- `と訊くと、童子は
- `法華経というものなど今まで名前も聞いたことがありません
- `と答えた
- `比丘がまた
- `ならば、我が房へ連れて行き、法華経を教えよう
- `と言うと、童子は
- `仰せに従います
- `と比丘の後についていった
- `五台山の房に到着し、法華経をお教えになった
- `経を習っていると、小僧がいつもやって来て何か話をする
- `誰とはわからない
- `比丘は
- `いつも来る若い高徳の僧をおまえは知っているのか
- `とお尋ねになった
- `童子は
- `知りません
- `と答えた
- `比丘は
- `彼こそこの山に住まわれる文殊だ
- `我に話をしに来られたのだ
- `と言われた
- `このように教えたが、童子は文殊ということも知らなかった
- `だから、なんとも思わなかった
- `比丘は童子に
- `おまえ、ゆめゆめ女人に近づいてはならぬぞ
- `周囲を退けて慣れ親しんではならぬ
- `と言われた
- `童子が外出したときのこと、葦毛の馬に乗り、たいそう化粧をした美しい女と道で出会った
- `この女は
- `そなた、この馬の口を引いて下さい
- `道がとても悪くて、落ちそうになるのです
- `と言ったが、童子が耳も貸さずに行こうとすると、この馬が勇み、女は逆さまに落ちてしまった
- `そして
- `私を助けて
- `もう死にそう
- `と言ったが、それでも耳を貸さなかった
- `我が師が
- `女の傍へ寄ってはならぬ
- `と言っておられたっけ
- `と思い、五台山へ帰って女との始終を比丘に話し
- `それでも耳も貸さずに帰って参りました
- `と言うと
- `でかしたぞ
- `その女は文殊の化身で、おまえの心をご覧になっていたのだ
- `と言ってほめた
- `そうこうするうちに、童子は法華経を一部読み終えた
- `そのとき比丘は
- `おまえは法華経を読み終えた
- `これより法師になって受戒せよ
- `と言って法師になされた
- `我は受戒を授けることができぬ
- `洛陽の禅定寺においでの倫法師という人がこの頃帝の宣旨を賜り、受戒を行っている
- `その人のもとへ行き、受けて参れ
- `もはやおまえを見てはならないことがあるのだ
- `と言って泣かれることこの上ない
- `童子は
- `受戒した後にはすぐ戻って参ります
- `どうしてそのようなことを仰るのですか
- `と言った
- `また
- `どうしてお泣きになるのです
- `と問えば
- `ただ悲しいことがあるのだ
- `と言ってお泣きになる
- `そして童子に
- `戒師のもとへ行き
- `どこから来た人か
- `と訊かれたら
- `清冷山の海雲比丘のもとより
- `と答えよ
- `とお教えになり、泣く泣く見送られた
- `童子は仰せに従って倫法師のもとへ行き、受戒すべき由を述べれば、話のとおり
- `どこから来た人か
- `とお尋ねになったので、教えられたように答えると、倫法師は驚き
- `尊いことだ
- `と礼拝し
- `五台山は文殊のみがお住まいの所だ
- `そなたは海雲比丘という仏道へのよい指導者に会い、文殊をよく拝み奉っていたのだろう
- `と、尊ぶことこの上ない
- `そして受戒し、五台山へ帰って、日頃いた房のあった所を見ると、まったく人の住んでいる気配がなかった
- `泣く泣く山中を捜し歩いたが、ついにその場所は見つからなかった
- `彼は優婆崛多の弟子の僧で、賢かったが、心が弱く女に近づいてしまった
- `この者は幼かったが、心が強くて女に近づかなかった
- `それゆえ文殊は、この者を、賢かったので、教化して仏道に入れたのである
- `だから世の人、戒めを破ってはならない