一八五清見原天皇大友皇子に与する合戦の事

現代語訳

  1. `昔、天智天皇の御子に大友皇子という人がいた
  2. `太政大臣となって、世の政を行っていた
  3. `内心
  4. `帝がお隠れになったら、次の帝には自分がなろう
  5. `と思っておられた
  6. `天武天皇は、その時春宮でいらしたが、この気配をお感じになり
  7. `大友皇子は時の政を行い、世間の評判も勢いもすばらしい
  8. `我は春宮であるから、勢いも及ばない
  9. `殺されるだろう
  10. `と恐れられ、帝がご病気に臥せられるとすぐ
  11. `吉野山の奥に入り、法師になる
  12. `と言ってお籠りになった
  1. `そのとき、大友皇子に、ある人が
  2. `春宮を吉野山に籠もらせるのは、虎に翼をつけて野に放つようなものです
  3. `同じ宮に置いてこそ、思いのままにできましょう
  4. `と言うので
  5. `たしかに
  6. `と思い、軍を整え、迎えを装って殺害してしまおうと謀られた
  1. `この大友皇子の妻に春宮の娘・十市皇女がいらしたが、父の命が狙われてることを悲しまれ
  2. `なんとかしてこのことを知らせなければ
  3. `と思うものの、そのすべもなくて、思いあぐねた末、あった鮒の包み焼きの腹に小さく文を記し入れて送った
  4. `春宮はこれをご覧になり、ただでさえ恐れていたことなので
  5. `やはり
  6. `と急いで下人の狩衣と袴をお着けになり、藁沓を履かれて、宮中の誰にも知られぬようにして、ただ一人、山を越え、北の方へ向かわれ、山城国の田原という所に、不案内ゆえに五・六日を費やし、やっとの思いで到着された
  1. `そこの里人が、どことなく気高さを感じたので、高杯に焼いたり茹でたりした栗を盛ってふるまった
  2. `その二色の栗を
  3. `願い事が叶うなら、芽を出して木になれ
  4. `と、傍らの山の急斜面に埋められた
  5. `里人は、これを見て、気になったので、目印を差しておいた
  6. `そこを出られると、志摩の国の方へ山に沿って出られた
  7. `その国の人が、怪しんで尋ねれば
  8. `道に迷った者だ
  9. `喉が渇いた
  10. `水を飲ませてもらいたい
  11. `と仰せになったので、大きな釣瓶に水を汲んで差し上げると、喜んで
  12. `おまえの一族をこの国の守としよう
  13. `と仰り、美濃国へと向かわれた
  1. `この国の墨俣の渡しで、舟が見当たらずにお立ちになっていたとき、女が、大きな桶に布を入れて洗っていたので
  2. `この渡しを、なんとかして渡してもらいえないか
  3. `と尋ねられると、女は
  4. `一昨日、大友皇子の大臣の使者という者が来て、渡し舟をみな取り隠していってしまったので、たとえここを渡られたとしても、他の多くの渡しを越えることはできないでしょう
  5. `こうして謀っているからには、すぐにも軍が攻めてくるでしょう
  6. `逃げようがありません
  7. `と言った
  8. `では、どうしたらよいか
  9. `とお尋ねになると、女は
  10. `お見受けしたところ、ただの人ではなさそうですね
  11. `では、隠して差し上げましょう
  12. `と言って、湯槽を裏返しに伏せてその下に隠し、上に布をたくさん置くと、再び水を汲んで洗い物を始めた
  1. `しばらくすると、兵が四・五百人ほどやって来た
  2. `そして、女に
  3. `ここから誰か渡ったか
  4. `と訊いたので、女が
  5. `高貴な方が兵を千人ほど率いていらっしゃいました
  6. `今頃は信濃国に入られたでしょう
  7. `龍のような見事な馬に乗って、飛ぶようにしておいででした
  8. `こんな少ない手勢では、たとえ追いついても全員殺されてしまうでしょう
  9. `これから戻り、兵を多く整えて追った方がよいのではないでしょうか
  10. `と答えると、本気にして、大友皇子の兵は全員引き返していった
  1. `その後、春宮が女に
  2. `この辺りで兵を募ったら、集まるだろうか
  3. `とお尋ねになったので、女は駆けずり回って、その国で力のある者らを集めて話すと、たちまち二・三千人の軍が集まった
  4. `それを率いて、大友皇子を追われると、近江国大津という所で追いつかれ、合戦をなされば、皇子の軍は破れ、四散して逃げる際、大友皇子はついに山崎で討たれて首を奪われなさった
  1. `それより春宮は大和国にお帰りになり、即位された
  2. `田原に埋められた焼栗と茹で栗は、形も変わらず生え出てきた
  3. `今も
  4. `田原の御栗
  5. `として献上する
  6. `志摩の国で水を差し上げた者は、高階氏の者である
  7. `それゆえ、子孫が国守となっている
  8. `その水を飲んだ釣瓶は、今も薬師寺にある
  9. `墨俣の女は不破明神となられたという