一一八五清見原天皇大友皇子に与する合戦の事
現代語訳
- `昔、天智天皇の御子に大友皇子という人がいた
- `太政大臣となって、世の政を行っていた
- `内心
- `帝がお隠れになったら、次の帝には自分がなろう
- `と思っておられた
- `天武天皇は、その時春宮でいらしたが、この気配をお感じになり
- `大友皇子は時の政を行い、世間の評判も勢いもすばらしい
- `我は春宮であるから、勢いも及ばない
- `殺されるだろう
- `と恐れられ、帝がご病気に臥せられるとすぐ
- `吉野山の奥に入り、法師になる
- `と言ってお籠りになった
- `そのとき、大友皇子に、ある人が
- `春宮を吉野山に籠もらせるのは、虎に翼をつけて野に放つようなものです
- `同じ宮に置いてこそ、思いのままにできましょう
- `と言うので
- `たしかに
- `と思い、軍を整え、迎えを装って殺害してしまおうと謀られた
- `この大友皇子の妻に春宮の娘・十市皇女がいらしたが、父の命が狙われてることを悲しまれ
- `なんとかしてこのことを知らせなければ
- `と思うものの、そのすべもなくて、思いあぐねた末、あった鮒の包み焼きの腹に小さく文を記し入れて送った
- `春宮はこれをご覧になり、ただでさえ恐れていたことなので
- `やはり
- `と急いで下人の狩衣と袴をお着けになり、藁沓を履かれて、宮中の誰にも知られぬようにして、ただ一人、山を越え、北の方へ向かわれ、山城国の田原という所に、不案内ゆえに五・六日を費やし、やっとの思いで到着された
- `そこの里人が、どことなく気高さを感じたので、高杯に焼いたり茹でたりした栗を盛ってふるまった
- `その二色の栗を
- `願い事が叶うなら、芽を出して木になれ
- `と、傍らの山の急斜面に埋められた
- `里人は、これを見て、気になったので、目印を差しておいた
- `そこを出られると、志摩の国の方へ山に沿って出られた
- `その国の人が、怪しんで尋ねれば
- `道に迷った者だ
- `喉が渇いた
- `水を飲ませてもらいたい
- `と仰せになったので、大きな釣瓶に水を汲んで差し上げると、喜んで
- `おまえの一族をこの国の守としよう
- `と仰り、美濃国へと向かわれた
- `この国の墨俣の渡しで、舟が見当たらずにお立ちになっていたとき、女が、大きな桶に布を入れて洗っていたので
- `この渡しを、なんとかして渡してもらいえないか
- `と尋ねられると、女は
- `一昨日、大友皇子の大臣の使者という者が来て、渡し舟をみな取り隠していってしまったので、たとえここを渡られたとしても、他の多くの渡しを越えることはできないでしょう
- `こうして謀っているからには、すぐにも軍が攻めてくるでしょう
- `逃げようがありません
- `と言った
- `では、どうしたらよいか
- `とお尋ねになると、女は
- `お見受けしたところ、ただの人ではなさそうですね
- `では、隠して差し上げましょう
- `と言って、湯槽を裏返しに伏せてその下に隠し、上に布をたくさん置くと、再び水を汲んで洗い物を始めた
- `しばらくすると、兵が四・五百人ほどやって来た
- `そして、女に
- `ここから誰か渡ったか
- `と訊いたので、女が
- `高貴な方が兵を千人ほど率いていらっしゃいました
- `今頃は信濃国に入られたでしょう
- `龍のような見事な馬に乗って、飛ぶようにしておいででした
- `こんな少ない手勢では、たとえ追いついても全員殺されてしまうでしょう
- `これから戻り、兵を多く整えて追った方がよいのではないでしょうか
- `と答えると、本気にして、大友皇子の兵は全員引き返していった
- `その後、春宮が女に
- `この辺りで兵を募ったら、集まるだろうか
- `とお尋ねになったので、女は駆けずり回って、その国で力のある者らを集めて話すと、たちまち二・三千人の軍が集まった
- `それを率いて、大友皇子を追われると、近江国大津という所で追いつかれ、合戦をなされば、皇子の軍は破れ、四散して逃げる際、大友皇子はついに山崎で討たれて首を奪われなさった
- `それより春宮は大和国にお帰りになり、即位された
- `田原に埋められた焼栗と茹で栗は、形も変わらず生え出てきた
- `今も
- `田原の御栗
- `として献上する
- `志摩の国で水を差し上げた者は、高階氏の者である
- `それゆえ、子孫が国守となっている
- `その水を飲んだ釣瓶は、今も薬師寺にある
- `墨俣の女は不破明神となられたという