九一九三仁戒上人往生の事
現代語訳
- `これも昔の話、奈良に仁戒上人という人がいた
- `山階寺の僧である
- `才能と学識は寺中で並ぶ者がなかった
- `ところが、突如道心を発して寺を出ようとするので、その時の別当であった興正僧都がたいへん惜しみ、引きとめて出そうとなさらなかった
- `困ってしまったので、西の里に住む人の娘を妻にして通ううち、人々が次第に噂するようになった
- `人に広く知らせようと、家の門でこの女の首に抱きついたり背後に添い立ったりした
- `通り過ぎる人がそれを見て驚きあきれ、憂えることこの上なかった
- `堕落した人間になってしまったと人に知らせるためである
- `一方、妻と連れ添いながらも、それ以上近づくことはなかった
- `堂に入って一晩中寝もやらず、涙を落として修行をした
- `このことを別当僧都が聞き、ますます尊んで呼び戻そうとしたので、困って逃げ、葛下郡の郡司の婿になった
- `数珠なども敢えて持たなかったが、心に秘めた道心をさらに固めて修行した
- `そして添下郡の郡司が上人に目を留め、深く尊び思ったので、あても定めず歩く後ろについて衣食や沐浴などの世話をした
- `上人は
- `何を思ってこの郡司夫妻はこんなに自分の世話を焼くのだろうか
- `と思い、その本心を尋ねたところ、郡司は答え
- `何のこともありません
- `ただ尊く思うがゆえにこうしているのです
- `ただし、一言申し上げたいことがあります
- `と言った
- `それは何か
- `と問えば
- `ご臨終の際、どうすればお会いできますか
- `と言うので、上人は意のままにできることのように
- `実に容易いこと
- `と答えると、郡司は手を擦って喜んだ
- `さて、年月が過ぎたある冬の雪の降った日の暮れ方、上人は郡司の家にやって来た
- `郡司は喜び、いつものことなので、食事は下人らに用意をさせず、夫婦自らの手でふるまった
- `そして湯などを浴びて休んだ
- `翌朝また郡司夫妻が早起きをし、食事の支度などあれこれしていたところ、上人の休んでいる方からすばらしい芳香が漂ってきて、匂いが家中に満ちた
- `香りは家中に満ちた
- `名香などを焚いておられるのだろう
- `と思った
- `明朝は早く出よう
- `と言っていたのに夜が明けるまで起きて来なかった
- `郡司は
- `お粥ができました
- `伝えてください
- `と弟子に言うと
- `怒りっぽい上人です
- `下手なことを言うとぶたれてしまいます
- `じきに起きてこられるでしょう
- `と言っていた
- `そうこうするうちに日も出たので
- `普段これほど長くお休みにはならないのに、妙だ
- `と思い、そばへ寄って声をかけてみたが、返事がない
- `戸を引き開けて見れば、西に向かってきちんと座り、合唱したまま死んでおられた
- `驚いたことこの上ない
- `郡司夫婦や弟子たちは泣き悲しみ、そして尊び拝んだ
- `明け方によい香りが漂っていたのは極楽からのお迎えだったのだ
- `と合点した
- `臨終に会いましょうと約束したので、ここに来られたのだ
- `と、郡司は泣く泣く葬送を執り行ったという