読解
ほぼ同じ話が金葉和歌集にもあるので状況をより明らかにするために載せておきます。
金葉集 巻第九 雑歌上(抜粋)
- いづみしきぶ保昌にぐして丹後国に侍りけるころ都に歌合のありけるにこしきぶの内侍歌よみにとられて侍りけるを中納言定頼つぼねのかたにまうできて
- 歌はいかがせさせ給ふ
- 丹後へ人ばつかはしけんや
- 使いまだまうでこずや
- いかに心もとなくおぼすらんな
- とたはぶれて立けるをひきとどめてよめる
- 小式部内侍
- おほ江やまいく野のみちの遠ければまだふみもみず天のはしだて
校訂金葉集 巻第九 雑歌上
- 和泉式部が夫の藤原保昌に連れ添って丹後国におられた頃、都で歌合があり、小式部内侍が歌詠みとして選ばれておられたが、中納言定頼が局の傍に参って
- 歌はいかがなさるのですか
- 丹後へ人を遣わしたのですか
- 使者はまだ戻ってこないのですか
- どれほど心許無くお思いでしょうね
- と戯れて立つのを引き留めて、こう詠んだ
- 小式部内侍
- おお江やま いく野のみちの 遠ければ まだふみもみず 天のはしだて
当時小式部の歌には母・和泉式部による代作疑惑があったようです。歌合間近、それを種にからかわれたのを歌で切り返し、定頼に泡を吹かせる話ですが、彼の反応は歌に感心したというにしてはいささか様子がおかしい。ここが鍵です。なぜ「こはいかに」という言葉を発し、返歌にも及ばず逃げたのか。
まず、歌は次のように読めます。
- 〔一〕おおえ山 いく野の道の 遠ければ まだ文も見ず あまのはしだて
- 大きな山や多くの山 幾多の野を行く道は 遠いから まだ文も見ていない 母の暮らしはじめの知らせすら
- 〔二〕大江山 生野の道の 遠ければ まだ踏みもみず 天のはしだて
- 大江山 生野の道は 遠いから まだ踏みもしていない 天橋立
おほえ(大江)とおほい(多い)とおほい(大い)の三つを統べるおほえという掛詞、幾多の野の幾野と野をゆく行く野と地名の生野の三つを統べるいく野という掛詞、大江山、生野、天橋立という三つの歌枕、道−ふみ−橋という縁語が織り込まれています。大江山は山城(現・京都市西京区)・丹波(現・亀岡市)国境と丹後国内(現・福知山市周辺)に二か所、生野は丹波国の東側(現・亀岡市、先の大江山の西付近)と西側(但馬国、現・朝来市)と丹後国内(現・福知山市)に三か所、京と丹後国を結ぶ丹州路(古の山陰道)の周辺にあり、それらを地図上に点を落として外郭線で繋ぐと北を上にして末広がりのおよそ三角形ができます。頂こそ丹後国随一の地、天橋立。おほえ山やいく野の意味の数からしても歌枕の被りは意図したものとみてよさそうです。
歌に重ねられた二つの意味は京から見ての往と復という相反する方向性を持っており、往では旅心が、復では文への待望が語られています。語句の組み合わせは訳のとおりが順当でしょう。歌枕が〔一〕に入っては訴える要素が増えて主意がぼやけ、〔二〕は茫洋感ばかり強まってしまいます。
主語となる人物は共に小式部と考えられます。京にいながら文を待つことも遠くに思いを馳せることもできるので筋が通ります。主語が使者あるいは別々だと辻褄が合わなかったり、せっかくの描写が壊れて歌が台無しになったりします。
〔一〕のあまのはしだては、あまを尼すなわち母、はしを端すなわち端緒、立てるを噂を立てるなどと同様の人に知らせるという意味に解釈すると尼の端立てとなり、訳のように読めます。〔二〕の天のはしだては、推考にはなりますが、丹後国風土記に記されている伊射奈芸命が天に行くために立てた梯であったとする由来に己が心を重ねている、と読んでみると、一層深みが感じられます。
彼女が意味の順序をどう考えていたかは窺えませんが、それらを一筋にする場合、名も知れぬ野々山々の向こうからの文を待ち、思い募るままにあれこれ心に描き、いろいろな土地を知り、歌枕に旅の空を思う、という流れが自然であるように思います。歌枕を並べた後に「多い山、幾多の野」と語るというのはやや違和感があります。かくして、これらを結んでみると、腰句のとほければには、〔一〕では心理的な遠さに慕情が、〔二〕では物理的な遠さに旅情がこもっており、心象風景に添えられた複雑な彩が浮かび上がってくるのです。
次に、小式部は藤原公任の次の歌を本歌に取ったと考えられます。本歌には改作がいくつかありますが、最も似ているものと引照します。
- 大納言公任
をぐら山 あらしのかぜの さむければ もみぢのにしき きぬ人ぞなき
- 小式部内侍
- 大江山 いく野のみちの とほければ まだふみも見ず 天のはしだて
国史大系 第拾七巻 大鏡
これが記されている大鏡によれば藤原道長主催の和歌・漢詩・管弦の船三艘を浮かべた大井川逍遥における和歌の船上にて詠まれたとされています。別の作のひとつは右衛門督公任の名で拾遺和歌集に収められています。公任の右衛門督職は長徳二年(九九六年)から長保二年(一〇〇〇年)、大納言職は寛弘六年(一〇〇九年)から万寿元年(一〇二四年)。小式部の生誕は長保元年(九九九年)頃、保昌の丹後守職は寛仁四年(一〇二〇年)から四年ほどの間。したがって、本段の歌合は小式部が二十一歳を過ぎた頃と思われ、公任の大納言職との時期に重なりはありますが、二人の詠んだ状況などからしても公任が本歌取りしたとは考えにくい。この公任こそ、定頼の父です。
小式部と定頼は恋人同士の時期があったとも言われており、彼女の腕を売り出すための芝居だったのではないかという見方もあるようですが、そんな小細工など弄さずとも十分高い評価を受けるに疑いないことは前述のとおりです。ここでは触れませんが、公任のかの歌にはきぬという表現が来ぬ(来た)に通じるという点のもたらす欠陥があります。さしずめ、局の傍らのやりとりは、彼に「お母様にいい歌を作ってもらいましたか」と揶揄された彼女が、己が歌と潜む本歌を併せて「あなたのお父様だって『小倉山に来た人はいない』とお詠みになっているではありませんか。丹後国は小倉山よりもっともっと向こうなのですからなおのこと来ません」と答えたため、彼は本歌が父の歌であることと詠みの見事さと父の歌の欠点を含んだ反駁とを突きつけられた格好になり、返しに詰まって逃げたのではないでしょうか。
小倉百人一首第六十番にこの歌と共に名を刻まれた彼女は、万寿二年(一〇二五年)、二十代半ばの若さでこの世を去りました。