読解
石清水八幡宮の地図を開いて極楽寺・高良神社の位置を見ればなぜ皆が山を目指したかはすぐ見当がつくでしょう。しかし、先達を境内案内人と捉えては無知ゆえに巡りそびれて負け惜しみを言った老法師の単なる失敗譚に読めてしまうので注意が必要です。
当時の石清水詣というのは舟に乗り合わせて行っての遊山だったようです。そこを彼はただ独り徒歩で詣でました。ところが、いざ到着しても小さな寺社を二宇ほど拝んだ後そのまま帰っています。「聞きしにも過ぎて尊くおはしけれ」と語る程にはいかなる場所か知っていたようです。にもかかわらず、皆の登る先に興味があるのなら周囲の人々に尋ねるなどなんでもなかろうに、その素振りもありません。宿願であったにしてはあまりに諦めが早い。そんな彼の心はある言葉に表れていました。「山までは見ず」
帰って後、詣でたことには「はたし侍りぬ」、拝んだ極楽寺・高良神社には「尊くおはしけれ」と言いながら、本宮である山には敬語を用いていません。この敬語はかたへの人に対するものではありません。もしそうならば其れ相応の表現で通しているはずです。また、「かばかり」という言葉にはこれらだけがとたったこの程度という二つの意味が重なっています。夢を抱いて辿る一歩一歩の路も、近づくにつれ、境内の有様を見るにつれ、想像とかけ離れていったために幻滅し、本宮のさらなる嘆かわしさはもはや見るに及ばず、と思ってしまったのではないでしょうか。神へ参るこそ本意と思う彼には境内の隅の人影少ない小さな寺社が神々しく、それを記憶に留めておきたかったのでしょう。
したがって、ここで言う先達とは「石清水八幡宮とはしかじかな所である」ということをもっと早い時期に教えてくれる人のことを指していると考えられます。不幸は、仁和寺はかの有様を称するような人々ばかりで、そんな人には出会えなかったこと。憧憬の月日が長いほど、敬虔の念が深いほど、失望はその度合いを深めます。年老いるまで心に描き続けてきた石清水八幡宮に彼はもう生きて二度と訪ねることはなかったような気がします。