第二百十五段 を読み解く

原文と現代語訳

  1. 平宣時朝臣老ののち昔がたりに
  2. 最明寺入道あるよひの間に呼ばるる事ありしに
  3. やがて
  4. と申しながら直垂のなくてとかくせしほどにまた使きたりて
  5. 直垂などの候はぬにや
  6. 夜なればことやうなりとも疾く
  7. とありしかばなえたる直垂うちうちのままにて罷りたりしに銚子にかはらけ取りそへてもて出でて
  8. この酒をひとりたうべんがさうざうしければ申しつるなり
  9. 肴こそなけれ人はしづまりぬらん
  10. さりぬべき物やあるといづくまでも求め給へ
  11. とありしかば紙燭さしてくまぐまを求めしほどに台所の棚に小土器に味噌の少しつきたるを見出でて
  12. これぞ求め得てさふらふ
  13. と申ししかば
  14. 事足りなん
  15. とて心よく数献におよびて興に入られはべりき
  16. その世にはかくこそ侍りしか
  17. と申されき
  1. 平宣時朝臣が老いた後、昔話に、
  2. 最明寺入道・北条時頼からある宵の間に呼ばれたことがあって
  3. すぐに
  4. と言ったものの直垂がなくてまごまごしていると再び使者が来て、
  5. 直垂などはござらぬのですか
  6. 夜ですからおかしくても急いで
  7. と言うので、くたびれた普段の直垂のまま向かうと、銚子に素焼きの杯を取り添えて出てきて
  8. この酒をひとり飲むのも物寂しかったので呼んでしまったのだ
  9. 肴がないのだが家人は寝てしまった
  10. 適当な物があるかそこら中好きに探してくだされ
  11. と言うので、紙燭を灯してあちこち隅なく探してみると台所の棚に小さな素焼きの器に味噌がわずかに付いているのを見つけ、
  12. やっとのことでこれを探し出しました
  13. と言うと、
  14. これで十分だ
  15. と心地よく数献に及んで上機嫌になられた
  16. あの時代にはそのようであった
  17. と申された

読解

最明寺入道ことかつての鎌倉幕府五代執権・北条時頼は嘉禄三年(一二二七年)に生まれ、康元元年(一二五六年)に執権を退いて入道、弘長三年(一二六三年)に死去、後に連署となった大仏流北条氏・平宣時は暦仁元年(一二三八年)に生まれ、元亨三年(一三二三年)に死去しています。したがってこの回想は彼が十八歳から二十五歳頃までの出来事と考えられます。時頼は、夜、家人も起こさず、急かして呼びつけておきながら肴は存分に探させているなど宣時を気に入っていた様子が窺えます。一見ただほのぼのとした主従の晩酌風景のようですが、よく読むとその趣が変わってきます。

宣時も使者もやけに直垂にこだわっています。宣時は直垂を持っていなかったわけではありません。直垂は当時の武士の正装です。時は夜、また使者の言葉からしても、この着用は世間体よりも時頼に対するものであったと考えられます。時頼がいついかなるときでもそのあたりにうるさいことを二人はよく知っているのです。機嫌良く酒盛りをしたところをみると紙燭を灯して肴を探すほど暗い屋敷で運よく気づかれなかったようですが、内心はひやひやしていたに違いありません。使者が催促に来るほどの間、よれよれの直垂を見つめて、宣時はいったい何を思っていたことでしょう。

兼好法師がこの話を聞いた頃には鎌倉幕府は末期を迎え、土台が揺らいでいました。時頼は八代執権・時宗の父で、宮騒動を制し得宗専制を敷いて執権の力を強めるなどすぐれた政治手腕を発揮する一方、質素倹約を宗とした人物。「いざ鎌倉」で知られる謡曲鉢木の題材ともなりました。「つましく、けじめがあり、厳しいが規律を守れば優しい人であった。そんな彼が治めていた頃の鎌倉は近頃の為体とはずいぶん違っていた」宣時は若くして逝ってしまった主君への懐古と共に今を嘆いたのではないでしょうか。